おまんは奥の坪庭に向いた小座敷のところへお民を呼んだ。妻籠《つまご》の本陣から来た娘を自分の嫁として、「お民、お民」と名を呼んで見ることもおまんにはめずらしかった。おとなの世界をのぞいて見たばかりのようなお民は、いくらか羞《はじらい》を含みながら、十七の初島田《はつしまだ》の祝いのおりに妻籠の知人から贈られたという櫛箱《くしばこ》なぞをそこへ取り出して来ておまんに見せた。
「どれ。」
 おまんは襷掛《たすきが》けになって、お民を古風な鏡台に向かわせ、人形でも扱うようにその髪をといてやった。まだ若々しく、娘らしい髪の感覚は、おまんの手にあまるほどあった。
「まあ、長い髪の毛だこと。そう言えば、わたしも覚えがあるが、これで眉《まゆ》でも剃《そ》り落とす日が来てごらん――あの里帰りというものは妙に昔の恋しくなるものですよ。もう娘の時分ともお別れですねえ。女はだれでもそうしたものですからねえ。」
 おまんはいろいろに言って見せて、左の手に油じみた髪の根元を堅く握り、右手に木曾名物のお六櫛《ろくぐし》というやつを執った。額《ひたい》から鬢《びん》の辺へかけて、梳《す》き手《て》の力がはいるたびに、お民は目を細くして、これから長く姑《しゅうとめ》として仕えなければならない人のするままに任せていた。
「熊《くま》や。」
 とその時、おまんはそばへ寄って来る黒毛の猫《ねこ》の名を呼んだ。熊は本陣に飼われていて、だれからもかわいがられるが、ただ年老いた隠居からは憎まれていた。隠居が熊を憎むのは、みんなの愛がこの小さな動物にそそがれるためだともいう。どうかすると隠居は、おまんや下女たちの見ていないところで、人知れずこの黒猫に拳固《げんこ》を見舞うことがある。おまんはお民の髪を結いながらそんな話までして、
「吾家《うち》のおばあさんも、あれだけ年をとったかと思いますよ。」
 とも言い添えた。
 やがて本陣の若い「御新造《ごしんぞ》」に似合わしい髪のかたちができ上がった。儀式ばった晴れの装いはとれて、さっぱりとした蒔絵《まきえ》の櫛《くし》なぞがそれに代わった。林檎《りんご》のように紅《あか》くて、そして生《い》き生きとしたお民の頬《ほお》は、まるで別の人のように鏡のなかに映った。
「髪はできました。これから部屋《へや》の案内です。」
 というおまんのあとについて、間もなくお民は家の内部《なか》のすみずみまでも見て回った。生家《さと》を見慣れた目で、この街道に生《は》えたような家を見ると、お民にはいろいろな似よりを見いだすことも多かった。奥の間、仲の間、次の間、寛《くつろ》ぎの間というふうに、部屋部屋に名のつけてあることも似ていた。上段の間という部屋が一段高く造りつけてあって、本格な床の間、障子から、白地に黒く雲形を織り出したような高麗縁《こうらいべり》の畳まで、この木曾路を通る諸大名諸公役の客間にあててあるところも似ていた。
 熊は鈴の音をさせながら、おまんやお民の行くところへついて来た。二人が西向きの仲の間の障子の方へ行けば、そこへも来た。この黒毛の猫は新来の人をもおそれないで、まだ半分お客さまのようなお民の裾《すそ》にもまといついて戯れた。
「お民、来てごらん。きょうは恵那山《えなさん》がよく見えますよ。妻籠《つまご》の方はどうかねえ、木曾川の音が聞こえるかねえ。」
「えゝ、日によってよく聞こえます。わたしどもの家は河《かわ》のすぐそばでもありませんけれど。」
「妻籠じゃそうだろうねえ。ここでは河の音は聞こえない。そのかわり、恵那山の方で鳴る風の音が手に取るように聞こえますよ。」
「それでも、まあよいながめですこと。」
「そりゃ馬籠《まごめ》はこんな峠の上ですから、隣の国まで見えます。どうかするとお天気のよい日には、遠い伊吹《いぶき》山まで見えることがありますよ――」
 林も深く谷も深い方に住み慣れたお民は、この馬籠に来て、西の方に明るく開けた空を見た。何もかもお民にはめずらしかった。わずかに二里を隔てた妻籠と馬籠とでも、言葉の訛《なま》りからしていくらか違っていた。この村へ来て味わうことのできる紅《あか》い「ずいき」の漬物《つけもの》なぞも、妻籠の本陣では造らないものであった。


 まだ半蔵夫婦の新規な生活は始まったばかりだ。午後に、おまんは一通り屋敷のなかを案内しようと言って、土蔵の大きな鍵《かぎ》をさげながら、今度は母屋《もや》の外の方へお民を連れ出そうとした。
 炉ばたでは山家らしい胡桃《くるみ》を割る音がしていた。おふきは二人の下女を相手に、堅い胡桃の核《たね》を割って、御幣餅《ごへいもち》のしたくに取りかかっていた。その時、上がり端《はな》にある杖《つえ》をさがして、おまんやお民と一緒に裏の隠居所まで歩こうと言い出したのは隠
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