る若者の多かった中で、半蔵ひとりはそんな方に目もくれず、また話相手の友だちもなくて、読書をそれらの遊戯に代えた。幸い一人の学友を美濃の中津川の方に見いだしたのはそのころからである。蜂谷《はちや》香蔵《こうぞう》と言って、もっと学ぶことを半蔵に説き勧めてくれたのも、この香蔵だ。二人の青年の早い友情が結ばれはじめてからは、馬籠と中津川との三里あまりの間を遠しとしなかった。ちょうど中津川には宮川寛斎がある。寛斎は香蔵が姉の夫にあたる。医者ではあるが、漢学に達していて、また国学にもくわしかった。馬籠の半蔵、中津川の香蔵――二蔵は互いに競い合って寛斎の指導を受けた。
「自分は独学で、そして固陋《ころう》だ。もとよりこんな山の中にいて見聞も寡《すくな》い。どうかして自分のようなものでも、もっと学びたい。」
 と半蔵は考え考えした。古い青山のような家に生まれた半蔵は、この師に導かれて、国学に心を傾けるようになって行った。二十三歳を迎えたころの彼は、言葉の世界に見つけた学問のよろこびを通して、賀茂《かもの》真淵《まぶち》、本居《もとおり》宣長《のりなが》、平田《ひらた》篤胤《あつたね》などの諸先輩がのこして置いて行った大きな仕事を想像するような若者であった。
 黒船は、実にこの半蔵の前にあらわれて来たのである。

       三

 その年、嘉永《かえい》六年の十一月には、半蔵が早い結婚の話も妻籠《つまご》の本陣あてに結納《ゆいのう》の品を贈るほど運んだ。
 もはや恵那山《えなさん》へは雪が来た。ある日、おまんは裏の土蔵の方へ行こうとした。山家のならわしで、めぼしい器物という器物は皆土蔵の中に持ち運んである。皿《さら》何人前、膳《ぜん》何人前などと箱書きしたものを出したり入れたりするだけでも、主婦の一役《ひとやく》だ。
 ちょうど、そこへ会所の使いが福島の役所からの差紙《さしがみ》を置いて行った。馬籠《まごめ》の庄屋《しょうや》あてだ。おまんはそれを渡そうとして、夫《おっと》を探《さが》した。
「大旦那《おおだんな》は。」
 と下女にきくと、
「蔵の方へおいでだぞなし。」
 という返事だ。おまんはその足で、母屋《もや》から勝手口の横手について裏の土蔵の前まで歩いて行った。石段の上には夫の脱いだ下駄《げた》もある。戸前の錠もはずしてある。夫もやはり同じ思いで、婚礼用の器物でも調べているらしい。おまんは土蔵の二階の方にごとごと音のするのを聞きながら梯子《はしご》を登って行って見た。そこに吉左衛門がいた。
「あなた、福島からお差紙《さしがみ》ですよ。」
 吉左衛門はわずかの閑《ひま》の時を見つけて、その二階に片づけ物なぞをしていた。壁によせて幾つとなく古い本箱の類《たぐい》も積み重ねてある。日ごろ彼の愛蔵する俳書、和漢の書籍なぞもそこに置いてある。その時、彼はおまんから受け取ったものを窓に近く持って行って読んで見た。
 その差紙には、海岸警衛のため公儀の物入りも莫大《ばくだい》だとある。国恩を報ずべき時節であると言って、三都の市中はもちろん、諸国の御料所《ごりょうしょ》、在方《ざいかた》村々まで、めいめい冥加《みょうが》のため上納金を差し出せとの江戸からの達しだということが書いてある。それにはまた、浦賀表《うらがおもて》へアメリカ船四|艘《そう》、長崎表へオロシャ船四艘交易のため渡来したことが断わってあって、海岸|防禦《ぼうぎょ》のためとも書き添えてある。
「これは国恩金の上納を命じてよこしたんだ。」と吉左衛門はおまんに言って見せた。「外は風雨《しけ》だというのに、内では祝言のしたくだ――しかしこのお差紙《さしがみ》の様子では、おれも一肌《ひとはだ》脱がずばなるまいよ。」
 その時になって見ると、半蔵の祝言を一つのくぎりとして、古い青山の家にもいろいろな動きがあった。年老いた吉左衛門の養母は祝言のごたごたを避けて、土蔵に近い位置にある隠居所の二階に隠れる。新夫婦の居間にと定められた店座敷へは、畳屋も通《かよ》って来る。長いこと勤めていた下男も暇を取って行って、そのかわり佐吉という男が今度新たに奉公に来た。
 おまんが梯子《はしご》を降りて行ったあと、吉左衛門はまた土蔵の明り窓に近く行った。鉄格子《てつごうし》を通してさし入る十一月の光線もあたりを柔らかに見せている。彼はひとりで手をもんで、福島から差紙のあった国防献金のことを考えた。徳川幕府あって以来いまだかつて聞いたこともないような、公儀の御金蔵《おかねぐら》がすでにからっぽになっているという内々《ないない》の取り沙汰《ざた》なぞが、その時、胸に浮かんだ。昔|気質《かたぎ》の彼はそれらの事を思い合わせて、若者の前でもなんでもおかまいなしに何事も大げさに触れ回るような人たちを憎んだ。そこから子に対
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