する心持ちをも引き出されて見ると、年もまだ若く心も柔らかく感じやすい半蔵なぞに、今から社会の奥をのぞかせたくないと考えた。いかなる人間同志の醜い秘密にも、その刺激に耐えられる年ごろに達するまでは、ゆっくりしたくさせたいと考えた。権威はどこまでも権威として、子の前には神聖なものとして置きたいとも考えた。おそらく隣家の金兵衛とても、親としてのその心持ちに変わりはなかろう。そんなことを思い案じながら、吉左衛門はその蔵の二階を降りた。
かねて前触れのあった長崎行きの公儀衆も、やがて中津川泊まりで江戸の方角から街道を進んで来るようになった。空は晴れても、大雪の来たあとであった。野尻宿《のじりしゅく》の継所《つぎしょ》から落合《おちあい》まで通し人足七百五十人の備えを用意させるほどの公儀衆が、さくさく音のする雪の道を踏んで、長崎へと通り過ぎた。この通行が三日も続いたあとには、妻籠《つまご》の本陣からその同じ街道を通って、新しい夜具のぎっしり詰まった長持《ながもち》なぞが吉左衛門の家へかつぎ込まれて来た。
吉日として選んだ十二月の一日が来た。金兵衛は朝から本陣へ出かけて来て、吉左衛門と一緒に客の取り持ちをした。台所でもあり応接間でもある広い炉ばたには、手伝いとして集まって来ているお玉、お喜佐、おふきなどの笑い声も起こった。
仙十郎《せんじゅうろう》も改まった顔つきでやって来た。寛《くつろ》ぎの間《ま》と店座敷の間を往《い》ったり来たりして、半蔵を退屈させまいとしていたのもこの人だ。この取り込みの中で、金兵衛はちょっと半蔵を見に来て言った。
「半蔵さん、だれかお前さんの呼びたい人がありますかい。」
「お客にですか。宮川寛斎先生に中津川の香蔵さん、それに景蔵《けいぞう》さんも呼んであげたい。」
浅見《あさみ》景蔵は中津川本陣の相続者で、同じ町に住む香蔵を通して知るようになった半蔵の学友である。景蔵はもと漢学の畠《はたけ》の人であるが、半蔵らと同じように国学に志すようになったのも、寛斎の感化であった。
「それは半蔵さん、言うまでもなし。中津川の御連中はあすということにして、もう使いが出してありますよ。あの二人《ふたり》は黙って置いたって、向こうから祝いに来てくれる人たちでさ。」
そばにいた仙十郎は、この二人の話を引き取って、
「おれも――そうだなあ――もう一度祝言の仕直しでもやりたくなった。」
と笑わせた。
山家にはめずらしい冬で、一度は八寸も街道に積もった雪が大雨のために溶けて行った。そのあとには、金兵衛のような年配のものが子供の時分から聞き伝えたこともないと言うほどの暖かさが来ていた。寒がりの吉左衛門ですら、その日は炬燵《こたつ》や火鉢《ひばち》でなしに、煙草盆《たばこぼん》の火だけで済ませるくらいだ。この陽気は本陣の慶事を一層楽しく思わせた。
午後に、寿平次|兄妹《きょうだい》がすでに妻籠《つまご》の本陣を出発したろうと思われるころには、吉左衛門は定紋《じょうもん》付きの※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《かみしも》姿で、表玄関前の広い板の間を歩き回った。下男の佐吉もじっとしていられないというふうで、表門を出たりはいったりした。
「佐吉、めずらしい陽気だなあ。この分じゃ妻籠の方も暖かいだろう。」
「そうよなし。今夜は門の前で篝《かがり》でも焚《た》かずと思って、おれは山から木を背負《しよ》って来た。」
「こう暖かじゃ、篝《かがり》にも及ぶまいよ。」
「今夜は高張《たかはり》だけにせずか、なし。」
そこへ金兵衛も奥から顔を出して、一緒に妻籠から来る人たちのうわさをした。
「一昨日《おととい》の晩でさ。」と金兵衛は言った。「桝田屋《ますだや》の儀助さんが夜行で福島へ出張したところが、往還の道筋にはすこしも雪がない。茶屋へ寄って、店先へ腰掛けても、凍えるということがない。どうもこれは世間一統の陽気でしょう。あの儀助さんがそんな話をしていましたっけ。」
「金兵衛さん――前代|未聞《みもん》の冬ですかね。」
「いや、全く。」
日の暮れるころには、村の人たちは本陣の前の街道に集まって来て、梅屋の格子《こうし》先あたりから問屋の石垣《いしがき》の辺へかけて黒山を築いた。土地の風習として、花嫁を載せて来た駕籠《かご》はいきなり門の内へはいらない。峠の上まで出迎えたものを案内にして、寿平次らの一行はまず門の前で停《と》まった。提灯《ちょうちん》の灯《ひ》に映る一つの駕籠を中央にして、木曾の「なかのりさん」の唄《うた》が起こった。荷物をかついで妻籠から供をして来た数人のものが輪を描きながら、唄の節《ふし》につれて踊りはじめた。手を振り腰を動かす一つの影の次ぎには、またほかの影が
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