》だなんて、早いものですね。わたしもこれで、平素《ふだん》はそれほどにも思いませんが、こんな話が持ち上がると、自分でも年を取ったかと思いますよ。」
「なにしろ、吉左衛門さんもお大抵じゃない。あなたのところのお嫁取りなんて、御本陣と御本陣の御婚礼ですからねえ。」
「半蔵さま――お前さまのところへは、妻籠の御本陣からお嫁さまが来《こ》さっせるそうだなし。お前さまも大きくならっせいたものだ。」
半蔵のところへは、こんなことを言いに寄る出入りのおふき婆《ばあ》さんもある。おふきは乳母《うば》として、幼い時分の半蔵の世話をした女だ。まだちいさかったころの半蔵を抱き、その背中に載せて、歩いたりしたのもこの女だ。半蔵の縁談がまとまったことは、本陣へ出入りの百姓のだれにもまして、この婆さんをよろこばせた。
おふきはまた、今の本陣の「姉《あね》さま」(おまん)のいないところで、半蔵のそばへ来て歯のかけた声で言った。
「半蔵さま、お前さまは何も知らっせまいが、おれはお前さまのお母《っか》様をよく覚えている。お袖《そで》さま――美しい人だったぞなし。あれほどの容色《きりょう》は江戸にもないと言って、通る旅の衆が評判したくらいの人だったぞなし。あのお袖さまが煩《わずら》って亡《な》くなったのは、あれはお前さまを生んでから二十日《はつか》ばかり過ぎだったずら。おれはお前さまを抱いて、お母《っか》さまの枕《まくら》もとへ連れて行ったことがある。あれがお別れだった。三十二の歳《とし》の惜しい盛りよなし。それから、お前さまはまた、間もなく黄疸《おうだん》を病《や》まっせる。あの時は助かるまいと言われたくらいよなし。大旦那《おおだんな》(吉左衛門)の御苦労も一通りじゃあらすか。あのお母《っか》さまが今まで達者《たっしゃ》でいて、今度のお嫁取りの話なぞを聞かっせいたら、どんなだずら――」
半蔵も生みの母を想像する年ごろに達していた。また、一人《ひとり》で両親を兼ねたような父吉左衛門が養育の辛苦を想像する年ごろにも達していた。しかしこのおふき婆さんを見るたびに、多く思い出すのは少年の日のことであった。子供の時分の彼が、あれが好きだったとか、これが好きだったとか、そんな食物のことをよく覚えていて、木曾の焼き米の青いにおい、蕎麦粉《そばこ》と里芋《さといも》の子で造る芋焼餅《いもやきもち》なぞを数えて見せるのも、この婆さんであるから。
山地としての馬籠は森林と岩石との間であるばかりでなく、村の子供らの教育のことなぞにかけては耕されない土も同然であった。この山の中に生まれて、周囲には名を書くことも知らないようなものの多い村民の間に、半蔵は学問好きな少年としての自分を見つけたものである。村にはろくな寺小屋もなかった。人を化かす狐《きつね》や狸《たぬき》、その他|種々《さまざま》な迷信はあたりに暗く跋扈《ばっこ》していた。そういう中で、半蔵が人の子を教えることを思い立ったのは、まだ彼が未熟な十六歳のころからである。ちょうど今の隣家の鶴松《つるまつ》が桝田屋《ますだや》の子息《むすこ》などと連れだって通《かよ》って来るように、多い年には十六、七人からの子供が彼のもとへ読書習字珠算などのけいこに集まって来た。峠からも、荒町《あらまち》からも、中のかやからも。時には隣村の湯舟沢、山口からも。年若な半蔵は自分を育てようとするばかりでなく、同時に無学な村の子供を教えることから始めたのであった。
山里にいて学問することも、この半蔵には容易でなかった。良師のないのが第一の困難であった。信州|上田《うえだ》の人で児玉《こだま》政雄《まさお》という医者がひところ馬籠に来て住んでいたことがある。その人に『詩経《しきょう》』の句読《くとう》を受けたのは、半蔵が十一歳の時にあたる。小雅《しょうが》の一章になって、児玉は村を去ってしまって、もはや就《つ》いて学ぶべき師もなかった。馬籠の万福寺には桑園和尚《そうえんおしょう》のような禅僧もあったが、教えて倦《う》まない人ではなかった。十三歳のころ、父吉左衛門について『古文真宝《こぶんしんぽう》』の句読を受けた。当時の半蔵はまだそれほど勉強する心があるでもなく、ただ父のそばにいて習字をしたり写本をしたりしたに過ぎない。そのうちに自ら奮って『四書《ししょ》』の集註《しゅうちゅう》を読み、十五歳には『易書《えきしょ》』や『春秋《しゅんじゅう》』の類《たぐい》にも通じるようになった。寒さ、暑さをいとわなかった独学の苦心が、それから十六、七歳のころまで続いた。父吉左衛門は和算を伊那《いな》の小野《おの》村の小野|甫邦《ほほう》に学んだ人で、その術には達していたから、半蔵も算術のことは父から習得した。村には、やれ魚|釣《つ》りだ碁将棋だと言って時を送
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