を胸に浮かべた。雨にも風にもこの交通の要路を引き受け、旅人の安全を第一に心がけて、馬方《うまかた》、牛方《うしかた》、人足の世話から、道路の修繕、助郷《すけごう》の掛合《かけあい》まで、街道一切のめんどうを見て来たその心づかいは言葉にも尽くせないものがあった。
 吉左衛門は炉ばたにいて、妻のおまんが温《あたた》めて出した一本の銚子と、到来物の鮎《あゆ》の塩焼きとで、自分の五十五歳を祝おうとした。彼はおまんに言った。
「きょうの長崎奉行にはおれも感心したねえ。水野|筑後《ちくご》の守《かみ》――あの人は二千石の知行《ちぎょう》取りだそうだが、きょうの御通行は十万石の格式だぜ。非常に破格な待遇さね。一足飛びに十万石の格式なんて、今まで聞いたこともない。それだけでも、徳川様の代《よ》は変わって来たような気がする。そりゃ泰平無事な日なら、いくら無能のものでも上に立つお武家様でいばっていられる。いったん、事ある場合に際会してごらん――」
「なにしろあなた、この唐人船の騒ぎですもの。」
「こういう時世になって来たのかなあ。」
 寛《くつろ》ぎの間《ま》と名づけてあるのは、一方はこの炉ばたにつづき、一方は広い仲《なか》の間《ま》につづいている。吉左衛門が自分の部屋《へや》として臥起《ねお》きをしているのもその寛ぎの間だ。そこへも行って周囲を見回しながら、
「しかし、御苦労、御苦労。」
 と吉左衛門は繰りかえした。おまんはそれを聞きとがめて、
「あなたはだれに言っていらっしゃるの。」
「おれか。だれも御苦労とも言ってくれるものがないから、おれは自分で自分に言ってるところさ。」
 おまんは苦笑いした。吉左衛門は言葉をついで、
「でも、世の中は妙なものじゃないか。名古屋の殿様のために、お勝手向きのお世話でもしてあげれば、苗字《みょうじ》帯刀御免ということになる。三十年この街道の世話をしても、だれも御苦労とも言い手がない。このおれにとっては、目に見えない街道の世話の方がどれほど骨が折れたか知れないがなあ。」
 そこまで行くと、それから先には言葉がなかった。
 馬籠の駅長としての吉左衛門は、これまでにどれほどの人を送ったり迎えたりしたか知れない。彼も殺風景な仕事にあくせくとして来たが、すこしは風雅の道を心得ていた。この街道を通るほどのものは、どんな人でも彼の目には旅人であった。
 遠からず来る半蔵の結婚の日のことは、すでにしばしば吉左衛門夫婦の話に上るころであった。隣宿|妻籠《つまご》の本陣、青山|寿平次《じゅへいじ》の妹、お民《たみ》という娘が半蔵の未来の妻に選ばれた。この忰《せがれ》の結婚には、吉左衛門も多くの望みをかけていた。早くも青年時代にやって来たような濃い憂鬱《ゆううつ》が半蔵を苦しめたことを想《おも》って見て、もっと生活を変えさせたいと考えることは、その一つであった。六十六歳の隠居半六から家督を譲り受けたように、吉左衛門自身もまた勤められるだけ本陣の当主を勤めて、あとから来るものに代《よ》を譲って行きたいと考えることも、その一つであった。半蔵の結婚は、やがて馬籠の本陣と、妻籠の本陣とを新たに結びつけることになる。二軒の本陣はもともと同姓を名乗るばかりでなく、遠い昔は相州三浦の方から来て、まず妻籠に落ち着いた、青山|監物《けんもつ》を父祖とする兄弟関係の間柄でもある、と言い伝えられている。二人《ふたり》の兄弟は二里ばかりの谷間をへだてて分かれ住んだ。兄は妻籠に。弟は馬籠に。何百年来のこの古い関係をもう一度新しくして、末《すえ》頼もしい寿平次を半蔵の義理ある兄弟と考えて見ることも、その一つであった。
 この縁談には吉左衛門は最初からその話を金兵衛の耳に入れて、相談相手になってもらった。吉左衛門が半蔵を同道して、親子二人づれで妻籠の本陣を訪《たず》ねに行って来た時のことも、まずその報告をもたらすのは金兵衛のもとであった。ある日、二人は一緒になって、秋の祭礼までには間に合わせたいという舞台普請の話などから、若い人たちのうわさに移って行った。
「吉左衛門さん、妻籠の御本陣の娘さんはおいくつにおなりでしたっけ。」
「十七さ。」
 その時、金兵衛は指を折って数えて見て、
「して見ると、半蔵さんとは六つ違いでおいでなさる。」
 よい一対の若夫婦ができ上がるであろうというふうにそれを吉左衛門に言って見せた。そういう金兵衛にしても、吉左衛門にしても、二十三歳と十七歳とで結びつく若夫婦をそれほど早いとは考えなかった。早婚は一般にあたりまえの事と思われ、むしろよい風習とさえ見なされていた。当時の木曾谷には、新郎十六歳、新婦は十五歳で行なわれるような早い結婚もあって、それすら人は別に怪しみもしなかった。
「しかし、金兵衛さん、あの半蔵のやつがもう祝言《しゅうげん
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