で、それで代官造りさ。今の町田《まちだ》がそれさ。その時分には、毎年五月に村じゅうの百姓を残らず集めて植え付けをした。その日に吾家《うち》から酒を一斗出した。酔って田圃《たんぼ》の中に倒れるものがあれば、その年は豊年としたものだそうだ。」
 この話もよく出た。
 吉左衛門の代になって、本陣へ出入りの百姓の家は十三軒ほどある。その多くは主従の関係に近い。吉左衛門が隣家の金兵衛とも違って、村じゅうの百姓をほとんど自分の子のように考えているのも、由来する源は遠かった。

       二

「また、黒船ですぞ。」
 七月の二十六日には、江戸からの御隠使《ごおんし》が十二代将軍徳川|家慶《いえよし》の薨去《こうきょ》を伝えた。道中奉行《どうちゅうぶぎょう》から、普請鳴り物類一切停止の触れも出た。この街道筋では中津川の祭礼のあるころに当たったが、狂言もけいこぎりで、舞台の興行なしに謹慎の意を表することになった。問屋九太夫の「また、黒船ですぞ」が、吉左衛門をも金兵衛をも驚かしたのは、それからわずかに三日過ぎのことであった。
「いったい、きょうは幾日です。七月の二十九日じゃありませんか。公儀の御隠使《ごおんし》が見えてから、まだ三日にしかならない。」
 と言って吉左衛門は金兵衛と顔を見合わせた。長崎へ着いたというその唐人船《とうじんぶね》が、アメリカの船ではなくて、ほかの異国の船だといううわさもあるが、それさえこの山の中では判然《はっきり》しなかった。多くの人は、先に相州浦賀の沖合いへあらわれたと同じ唐人船だとした。
「長崎の方がまた大変な騒動だそうですよ。」
 と金兵衛は言ったが、にわかに長崎奉行の通行があるというだけで、先荷物《さきにもつ》を運んで来る人たちの話はまちまちであった。奉行は通行を急いでいるとのことで、道割もいろいろに変わって来るので、宿場宿場で継立《つぎた》てに難渋した。八月の一日には、この街道では栗色《くりいろ》なめしの鎗《やり》を立てて江戸方面から進んで来る新任の長崎奉行、幕府内でも有数の人材に数えらるる水野《みずの》筑後《ちくご》の一行を迎えた。
 ちょうど、吉左衛門が羽織を着かえに、大急ぎで自分の家へ帰った時のことだ。妻のおまんは刀に脇差《わきざし》なぞをそこへ取り出して来て勧めた。
「いや、馬籠の駅長で、おれはたくさんだ。」
 と吉左衛門は言って、晴れて差せる大小も身に着けようとしなかった。今までどおりの丸腰で、着慣れた羽織だけに満足して、やがて奉行の送り迎えに出た。
 諸公役が通過の時の慣例のように、吉左衛門は長崎奉行の駕籠《かご》の近く挨拶《あいさつ》に行った。旅を急ぐ奉行は乗り物からも降りなかった。本陣の前に駕籠を停《と》めさせてのほんのお小休みであった。料紙を載せた三宝《さんぽう》なぞがそこへ持ち運ばれた。その時、吉左衛門は、駕籠のそばにひざまずいて、言葉も簡単に、
「当宿本陣の吉左衛門でございます。お目通りを願います。」
 と声をかけた。
「おゝ、馬籠の本陣か。」
 奉行の砕けた挨拶だ。
 水野|筑後《ちくご》は二千石の知行《ちぎょう》ということであるが、特にその旅は十万石の格式で、重大な任務を帯びながら遠く西へと通り過ぎた。


 街道は暮れて行った。会所に集まった金兵衛はじめ、その他の宿役人もそれぞれ家の方へ帰って行った。隣宿落合まで荷をつけて行った馬方なぞも、長崎奉行の一行を見送ったあとで、ぽつぽつ馬を引いて戻って来るころだ。
 子供らは街道に集まっていた。夕空に飛びかう蝙蝠《こうもり》の群れを追い回しながら、遊び戯れているのもその子供らだ。山の中のことで、夜鷹《よたか》もなき出す。往来一つ隔てて本陣とむかい合った梅屋の門口には、夜番の軒行燈《のきあんどん》の燈火《あかり》もついた。
 一日の勤めを終わった吉左衛門は、しばらく自分の家の外に出て、山の空気を吸っていた。やがておまんが二人の下女《げじょ》を相手に働いている炉ばたの方へ引き返して行った。
「半蔵は。」
 と吉左衛門はおまんにたずねた。
「今、今、仙十郎さんと二人でここに話していましたよ。あなた、異人の船がまたやって来たというじゃありませんか。半蔵はだれに聞いて来たんですか、オロシャの船だと言う。仙十郎さんはアメリカの船だと言う。オロシャだ、いやアメリカだ、そんなことを言い合って、また二人で屋外《そと》へ出て行きましたよ。」
「長崎あたりのことは、てんで様子がわからない――なにしろ、きょうはおれもくたぶれた。」
 山家らしい風呂《ふろ》と、質素な夕飯とが、この吉左衛門を待っていた。ちょうど、その八月|朔日《ついたち》は吉左衛門が生まれた日にも当たっていた。だれしもその日となるといろいろ思い出すことが多いように、吉左衛門もまた長い駅路の経験
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