しても、半蔵にしても、いずれも容易ならぬ時に直面したことを感じた。
 四月のはじめには、とうとう香蔵も景蔵のあとを追って、京都の方へ出かけて行った。三人の友だちの中で、半蔵一人だけが馬籠の本陣に残った。
「どうも心が騒いでしかたがない。」
 半蔵はひとり言って見た。
 その時になると、彼は中津川の問屋の仕事を家のものに任せて置いて京都の方へ出かけて行くことのできる香蔵の境涯《きょうがい》をうらやましく思った。友だちが京都を見うるの日は、師と頼む平田|鉄胤《かねたね》と行動を共にしうる日であろうかと思いやった。あの師の企図し、また企図しつつあるものこそ、まことの古代への復帰であろうと思いやった。おそらく国学者としての師は先師平田篤胤の遺志をついで、紛々としたほまれそしりのためにも惑わされず、諸藩の利害のためにも左右されず、よく大局を見て進まれるであろうとも思いやった。
 父吉左衛門は、と見ると、病後の身をいたわりながら裏二階の梯子段《はしごだん》を昇《のぼ》ったり降りたりする姿が半蔵の目に映る。馬籠の本陣庄屋問屋の三役を半蔵に譲ってからは、全く街道のことに口を出さないというのも、その人らしい。父が発病の当時には、口も言うことができない、足も起《た》つことができない、手も動かすことができない。治療に手を尽くして、ようやく半身だけなおるにはなおった。父は日ごろ清潔好きで、自分で本陣の庭や宅地をよく掃除《そうじ》したが、病が起こってからは手が萎《しお》れて箒《ほうき》を執るにも不便であった。父は能筆で、お家流をよく書き、字体も婉麗《えんれい》なものであったが、病後は小さな字を書くこともできなかった。まるで七つか八つの子供の書くような字を書いた。この父の言葉に、おかげで自分も治療の効によって半身の自由を得た、幸いに食事も便事も人手をわずらわさないで済む、しかし箒と筆とこの二つを執ることの不自由なのは実に悲しいと。この嘆息を聞くたびに、半蔵は胸を刺される思いをして、あの友の香蔵のような思い切った行動は執れなかった。
 八畳と三畳の二|部屋《へや》から成る味噌納屋《みそなや》の二階が吉左衛門の隠居所にあててある。そこに父は好きな美濃派の俳書や蜷川流《にながわりゅう》の将棋の本なぞをひろげ、それを朝夕の友として、わずかに病後をなぐさめている。中風患者の常として、とかくはかばかしい治療の方法がない。他目《よそめ》にももどかしいほど回復もおそかった。
「お民、おれは王滝《おうたき》まで出かけて行って来るぜ。あとのことは、清助さんにもよく頼んで置いて行く。」
 と半蔵は妻に言って、父の病を祷《いの》るために御嶽《おんたけ》神社への参籠《さんろう》を思い立った。王滝村とは御嶽山のすそにあたるところだ。木曾の総社の所在地だ。ちょうど街道も参覲交代制度変革のあとをうけ、江戸よりする諸大名が家族の通行も一段落を告げた。半蔵はそれを機会に、往復数日のわずかな閑《ひま》を見つけて、医薬の神として知られた御嶽の神の前に自分を持って行こうとした。同時に、香蔵の京都行きから深く刺激された心を抱いて、激しい動揺の渦中《かちゅう》へ飛び込んで行ったあの友だちとは反対に、しばらく寂しい奥山の方へ行こうとした。


 王滝の方へ持って行って神前にささげるための長歌もできた。半蔵は三十一字の短い形の歌ばかりでなく、時おりは長歌をも作ったので、それを陳情|祈祷《きとう》の歌と題したものに試みたのである。
「いよいよ半蔵もお出かけかい。」
 と言ってそばへ来るのは継母のおまんだ。おまんは裏の隠居所と母屋《もや》の間を往復して、吉左衛門の身のまわりのことから家事の世話まで、馬籠の本陣にはなくてならない人になっている。高遠《たかとお》藩の方に聞こえた坂本家から来た人だけに、相応な教養もあって、取って八つになる孫娘のお粂《くめ》に古今集《こきんしゅう》の中の歌なぞを諳誦《あんしょう》させているのも、このおまんだ。
「お母《っか》さん、留守をお願いしますよ。」と半蔵は言った。「わたしもそんなに長くかからないつもりです。三日も参籠《さんろう》すればすぐに引き返して来ます。」
「まあ、思い立った時に出かけて行って来るがいい。お父《とっ》さんも大層よろこんでおいでのようだよ。」
 家にはこの継母があり、妻があり、吉左衛門の退役以来手伝いに通《かよ》って来る清助がある。半蔵は往復七日ばかりの留守を家のものに頼んで置いて、王滝の方へ向かおうとした。下男の佐吉は今度も供をしたいと言い出したが、半蔵は佐吉も家に残して置いて、弟子《でし》の勝重《かつしげ》だけを連れて行くことにした。勝重も少年期から青年期に移りかける年ごろになって来て、しきりに同行を求めるからで。
 神前への供米《くまい》、『静《しず》
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