か、薩州侯をして下手人《げしゅにん》を出させることもできないのは、英国政府を侮辱するものであるとし、第一明らかにその罪を陳謝すべき事、償金十万ポンドを支払うべき事、もし満足な答えが得られないなら、英国水師提督は艦隊の威力によって目的を達するに必要な行動を執るであろうと言い、のみならず日本政府の力で薩摩の領分に下手人を捕えることもできないなら、英国は直接に薩州侯と交渉するであろう、それには艦隊を薩摩の港に差し向け、下手人を捕え、英国海軍士官の面前において斬首《ざんしゅ》すべき事、被害者の親戚《しんせき》および負傷者の慰藉料《いしゃりょう》として二万五千ポンドを支払うべき事をも付け添えて来た。この通牒《つうちょう》の影響は大きかった。のみならず、諸藩の有志が評定のために参集していた学習院へ達した時は、イギリス側の申し出はいくらかゆがめられた形のものとなって諸有志の間に伝えられた。それは左の三か条について返答を承りたい、とあったという。
[#ここから1字下げ]
一、島津久光をイギリスに相渡し申さるべきや。
二、償銀として十万ポンド差し出さるべきや。
三、薩摩の国を征伐いたすべきや。
[#ここで字下げ終わり]


「関東の事情切迫につき、英艦|防禦《ぼうぎょ》のため大樹《たいじゅ》(家茂のこと)帰府の儀、もっともの訳《わけ》がらに候えども、京都ならびに近海の守備警衛は大樹において自ら指揮これあるべく候《そうろう》。かつ、攘夷《じょうい》決戦のおりから、君臣一和にこれなく候ては相叶《あいかな》わざるのところ、大樹関東へ帰府せられ、東西相離れ候ては、君臣の情意相通ぜず、自然隔離の姿に相成るべく、天下の形勢救うべからざるの場合にたちいたり申すべく候。当節、大樹帰城の儀、叡慮《えいりょ》においても安んぜられず候間、滞京ありて、守衛の計略厚く相運《あいめぐ》らされ、宸襟《しんきん》を安んじ奉り候よう思《おぼ》し召され候。英艦応接の儀は浪華港《なにわみなと》へ相回し、拒絶談判これあるべく、万一兵端を開き候節は大樹自身出張、万事指揮これあり候わば、皇国の志気|挽回《ばんかい》の機会にこれあるべく思し召され候。関東防禦の儀は、しかるべき人体《にんてい》相選み申し付けられ候よう、御沙汰《ごさた》に候事。」これは小御所《こごしょ》において関白から一橋慶喜に渡されたというものである。学習院に参集する有志はいずれもこれを写し伝えることができた。とりあえず幕府方は海岸の防備を厳重にすべきことを諸藩に通達し、イギリス側に向かっては返答の延期を求めた。打てば響くような京都の空気の中で、人々はいずれも伝奏《てんそう》からの触れ書を読み、所司代がお届けの結果を待った。あるものはイギリスの三か条がすでに拒絶せられたといい、あるものは仏国公使が調停に起《た》ったといい、あるものは必ず先方より兵端を開くであろうと言った。諸説は紛々《ふんぷん》として、前途のほども測りがたかった。
 四人の外人の死傷に端緒を発する生麦事件は、これほどの外交の危機に推し移った。多年の排外熱はついにこの結果を招いた。けれどもこのことは攘夷派の顧みるところとはならなかった。討幕へと急ぐ多くの志士は、むしろこの機会を見のがすまいとしたのである。当時、京都にあった松平春嶽《まつだいらしゅんがく》は、公武合体の成功もおぼつかないと断念してか、事多く志と違《たが》うというふうで、政事総裁の職を辞して帰国したといい、急を聞いて上京した島津久光もかなり苦しい立場にあって、これも国もとの海岸防禦を名目に、わずか数日の滞在で帰ってしまったという。近衛忠熙《このえただひろ》は潜み、中川宮(青蓮院《しょうれんいん》)も隠れた。

       二

 香蔵は美濃《みの》中津川の問屋《といや》に、半蔵は木曾《きそ》馬籠《まごめ》の本陣に、二人《ふたり》は同じ木曾街道筋にいて、京都の様子を案じ暮らした。二人の友人で、平田|篤胤《あつたね》没後の門人仲間なる景蔵は、当時京都の方にあって国事のために奔走していたが、その景蔵からは二人あてにした報告がよく届いた。いろいろなことがその中に報じてある。帝《みかど》には御祈願のため、すでに加茂《かも》へ行幸せられ、そのおりは家茂および一橋慶喜以下の諸有司、それに在京の諸藩士が鳳輦《ほうれん》に供奉《ぐぶ》したことが報じてあり、さらに石清水《いわしみず》へも行幸の思《おぼ》し召しがあって、攘夷の首途《かどで》として男山八幡《おとこやまはちまん》の神前で将軍に節刀を賜わるであろうとのおうわさも報じてある。これらのことは、いずれも攘夷派の志士が建白にもとづくという。のみならず、場合によっては帝の御親征をすら望んでいる人たちのあることが報じてある。この京都|便《だよ》りを手にするたびに、香蔵に
前へ 次へ
全119ページ中108ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング