の岩屋《いわや》』二冊、それに参籠用の清潔で白い衣裳《いしょう》なぞを用意するくらいにとどめて、半蔵は身軽にしたくした。勝重は、これも半蔵と一緒に行くことを楽しみにして、「さあ、これから山登りだ」という顔つきだ。
本陣の囲炉裏《いろり》ばたでは、半蔵はじめ一同集まってこういう時の習慣のような茶を飲んだ。そこへ思いがけない客があった。
「半蔵さん、君はお出かけになるところですかい。」
と言って、勝手を知った囲炉裏ばたの入り口の方からはいって来た客は、他《ほか》の人でもない、三年前に中津川を引き揚げて伊那《いな》の方へ移って行った旧《ふる》い師匠だ。宮川寛斎《みやがわかんさい》だ。
寛斎はせっかく楽しみにして行った伊那の谷もおもしろくなく、そこにある平田門人仲間とも折り合わず、飯田《いいだ》の在に見つけた最後の「隠れ家《が》」まであとに見捨てて、もう一度中津川をさして帰って行こうとする人である。かつては横浜貿易を共にした中津川の商人|万屋安兵衛《よろずややすべえ》の依頼をうけ、二千四百両からの小判を預かり、馬荷一|駄《だ》に宰領の付き添いで帰国したその同じ街道の一部を、多くの感慨をもって踏んで来た人である。以前の伊那行きには細君も同道であったが、その人の死をも見送り、今度はひとりで馬籠まで帰って来て見ると、旧《ふる》いなじみの伏見屋金兵衛《ふしみやきんべえ》はすでに隠居し、半蔵の父も病後の身でいるありさまだ。そういう寛斎もめっきり年を取って来た。
「先生、そこはあまり端近《はしぢか》です。まあお上がりください。」
と半蔵は言って、上がり端《はな》のところに腰掛けて話そうとする旧師を囲炉裏ばたに迎えた。寛斎は半蔵から王滝行きを思い立ったことを聞いて、あまり邪魔すまいと言ったが、さすがに長い無沙汰《ぶさた》のあとで、いろいろ話が出る。
「いや、伊那の三年は大失敗。」と寛斎は頭をかきかき言った。「今だから白状しますが、横浜貿易のことが祟《たた》ったと見えて、どこへ行っても評判が悪い。これにはわたしも弱りましたよ。あの当時、君らに相談しなかったのは、わたしが悪かった。横浜の話はもう何もしてくださるな。」
「そう先生に言っていただくとありがたい。実は、わたしはこういう日の来るのを待っていました。」
「半蔵さん、君の前ですが、伊那へ行ってわたしは自分の持ってるものまで失っちまいましたよ。おまけに、医者ははやらず、手習い子供は来ずサ。まあ三年間の土産《みやげ》と言えば、古史伝の上木《じょうぼく》を手伝って来たくらいのものです。前島|正弼《まさすけ》、岩崎長世、北原稲雄、片桐《かたぎり》春一、伊那にある平田先生の門人仲間はみんなあの仕事を熱心にやっていますよ。あの出板《しゅっぱん》は大変な評判で、津和野藩《つわのはん》あたりからも手紙が来るなんて、伊那の衆はえらい意気込みさ。そう言えば、暮田正香《くれたまさか》が京都から逃げて来る時に、君の家にもお世話になったそうですね。」
「そうでした。着流しに雪駄《せった》ばきで、吾家《うち》へお見えになった時は、わたしもびっくりしました。」
「あの先生も思い切ったことをやったもんさ。足利《あしかが》将軍の木像の首を引き抜くなんて。あの事件には師岡正胤《もろおかまさたね》なぞも関係していますから、同志を救い出せと言うんで、伊那からもわざわざ運動に京都まで出かけたものもありましたっけ。暮田正香も今じゃ日陰の身でさ。でも、あの先生のことだから、京都の同志と呼応して伊那で一旗あげるなんて、なかなか黙ってはいられない人なんですね。とにかく、わたしが出かけて行った時分と、今とじゃ、伊那も大違い。あの谷も騒がしい。」
寛斎は尻《しり》を持ち上げたかと思うとまた落ちつけ、煙草入《たばこい》れを腰に差したかと思うとまた取り出した。そこへお民も茶を勧めに来て、夫の方を見て、
「あなた、店座敷の方へ先生を御案内したら。お母《っか》さんもお目にかかりたいと言っていますに。」
「いや、そうしちゃいられません。」と寛斎は言った。「半蔵さんもお出かけになるところだ。わたしはこんなにお邪魔するつもりじゃなかった。きょうお寄りしたのはほかでもありませんが、実は無尽《むじん》を思い立ちまして、上の伏見屋へも今寄って来ました。あの金兵衛さんにもお話しして来ました。半蔵さん、君にもぜひお骨折りを願いたい。」
「それはよろこんでいたしますよ。いずれ王滝から帰りました上で。」
「そうどころじゃない。あいにく香蔵も京都の方で、君にでもお骨折りを願うよりほかに相談相手がない。どうも男の年寄りというやつは具合の悪いもので、わたしも養子の厄介《やっかい》にはなりたくないと思うんです。これから中津川に落ちつくか、どうか、自分でも未定です。そうです
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