そこは伊那道にあたり、原|信好《のぶよし》のような同門の先輩が住む家もあったからで。
 半蔵は正香にきいた。
「暮田さんは、木曾路《きそじ》は初めてですか。」
「権兵衛《ごんべえ》街道から伊那へはいったことはありますが、こっち[#「こっち」は底本では「こつち」]の方は初めてです。」
「そんなら、こうなさるといい。これから妻籠《つまご》の方へ向かって行きますと、橋場《はしば》というところがありますよ。あの大橋を渡ると、道が二つに分かれていまして、右が伊那道です。実は母とも相談しまして、橋場まで吾家《うち》の下男に送らせてあげることにしました。」
「そうしていただけば、ありがたい。」
「あれから先はかなり深い山の中ですが、ところどころに村もありますし、馬も通います。中津川から飯田《いいだ》へ行く荷物はあの道を通るんです。蘭川《あららぎがわ》について東南へ東南へと取っておいでなさればいい。」
 おまんは着流しでやって来た客のために、脚絆《きゃはん》などを母屋《もや》の方から用意して来た。粗末ではあるが、と言って合羽《かっぱ》まで持って来て客に勧めた。佐吉も心得ていると見えて、土蔵の前には新しい草鞋《わらじ》がそろえてあった。
 正香は性急な人で、おまんや半蔵の見ている前で無造作に合羽へ手を通した。礼を述べるとすぐ草鞋をはいて、その足で土蔵の前の柿《かき》の木の下を歩き回った。
「暮田さん、わたしもそこまで御一緒にまいります。」
 と言って、半蔵は表門から出ずに、裏の木小屋の方へ客を導いた。木戸を押すと、外に本陣の稲荷《いなり》がある。竹藪《たけやぶ》がある。石垣《いしがき》がある。小径《こみち》がある。その小径について街道を横ぎって行った。樋《とい》をつたう水の奔《はし》り流れて来ているところへ出ると、静かな村の裏道がそこに続いている。
 その時、正香はホッと息をついた。半蔵や佐吉に送られて歩きながら、
「青山君、篤胤《あつたね》先生の古史伝を伊那の有志が上木《じょうぼく》しているように聞いていますが、君もあれには御関係ですかね。」
「そうですよ。去年の八月に、ようやく第一|帙《ちつ》を出しましたよ。」
「地方の出版としては、あれは大事業ですね。秋田(篤胤の生地)でさえ企てないようなことを伊那の衆が発起してくれたと言って、鉄胤先生なぞもあれには身を入れておいででしたっけ。なにしろ、伊那の方はさかんですね。先生のお話じゃ、毎年門人がふえるというじゃありませんか。」
「ある村なぞは、全村平田の信奉者だと言ってもいいくらいでしょう。そのくせ、松沢義章《まつざわよしあき》という人が行商して歩いて、小間物《こまもの》類をあきないながら道を伝えた時分には、まだあの谷には古学というものはなかったそうですが。」
「機運やむべからずさ。本居《もとおり》、平田の学説というものは、それを正しいとするか、あるいは排斥するか、すくなくも今の時代に生きるもので無関心ではいられないものですからねえ。」
 あわただしい中にも、送られる正香と、送る半蔵との間には、こんな話が尽きなかった。
 半蔵は峠の上まで客と一緒に歩いた。別れぎわに、
「暮田さんは、宮川寛斎という医者を御存じでしょうか。」
「美濃《みの》の国学者でしょう。名前はよく聞いていますが、ついあったことはありません。」
「中津川の景蔵さん、香蔵さん、それにわたしなぞは、三人とも旧《ふる》い弟子《でし》ですよ。鉄胤先生に紹介してくだすったのも宮川先生です。あの先生も今じゃ伊那の方ですが、どうしておいででしょうか――」
「そう言えば、青山君は鉄胤先生に一度あったきりだそうですね。一度あったお弟子でも、十年そばにいるお弟子でも、あの鉄胤先生には同じようだ。君の話もよく出ますよ。」
 この人の残して置いて行った言葉も、半蔵には忘れられなかった。


 もはや、暖かい雨がやって来る。二月の末に京都を発《た》って来たという正香は尾張《おわり》や仙台《せんだい》のような大藩の主人公らまで勅命に応じて上京したことは知るまいが、ちょうどあの正香が夜道を急いで来るころに、この木曾路には二藩主の通行もあった。三千五百人からの尾張の人足が来て馬籠の宿に詰めた。あの時、二百四十匹の継立《つぎた》ての馬を残らず雇い上げなければならなかったほどだ。木曾街道筋の通行は初めてと聞く仙台藩主の場合にも、時節柄同勢やお供は減少という触れ込みでも、千六百人の一大旅行団が京都へ向けてこの宿場を通過した。しかも応接に困難な東北弁で。
「半蔵、お前のところへ来たお客さんも、無事に伊那の小野村まで落ち延びていらしったろうか。」
 こんなうわさをおまんがするころは、そこいらは桃の春だった。一橋慶喜の英断に出た参覲交代制度の変革の結果は、驚かれるほどの勢い
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