でこの街道にあらわれて来るようになった。旧暦三月のよい季節を迎えて見ると、あの江戸の方で上巳《じょうみ》の御祝儀を申し上げるとか、御能《おのう》拝見を許されるとか、または両山の御霊屋《おたまや》へ参詣《さんけい》するとかのほかには、人質も同様に、堅固で厳重な武家屋敷のなかにこもり暮らしていたどこの簾中《れんちゅう》とかどこの若殿とかいうような人たちが、まるで手足の鎖を解き放たれたようにして、続々帰国の旅に上って来るようになった。
 越前の女中方、尾張の若殿に簾中、紀州の奥方ならびに女中方、それらの婦人や子供の一行が江戸の方から上って来て、いずれも本陣や問屋の前に駕籠《かご》を休めて行った。尾州の家中|成瀬隼人正《なるせはやとのしょう》の女中方、肥前島原の女中方、因州《いんしゅう》の女中方なぞの通行が続きに続いた。これが馬籠峠というところかの顔つきの婦人もある。ようやく山の上の空気を自由に吸うことができたと言いたげな顔つきのものもある。半蔵の家に一泊ときめて、五、六人で比丘尼寺《びくにでら》の蓮池《はすいけ》の方まで遊び回り、谷川に下帯|洗濯《せんたく》なぞをして来る女中方もある。
 上の伏見屋の金兵衛は、半蔵の父と同じようにすでに隠居の身であるが、持って生まれた性分《しょうぶん》からじっとしていられなかった。きのうは因州の分家にあたる松平|隠岐守《おきのかみ》の女中方が通り、きょうは岩村の簾中方が子供衆まで連れての通行があると聞くと、そのたびに旧《ふる》い友だちを誘いに来た。
「吉左衛門さん、いくら御静養中だって、そう引っ込んでばかりいなくてもいいでしょう。まあすこし出てごらんなさい。おきれいと言っていいか、おみごとと言っていいか、わたしは拝見しているうちに涙がこぼれて来ますよ。」
 毎日のような女中方の通行だ。半蔵や伊之助は見物どころではなかった。この帰国する人たちの通行にかぎり、木曾下四宿へ五百人の新助郷《しんすけごう》が許され、特にお定めより割のよい相対雇《あいたいやと》いの賃銭まで許され、百人ばかりの伊那の百姓は馬籠へも来て詰めていた。町人四分、武家六分と言われる江戸もあとに見捨てて来た屋敷方の人々は、住み慣れた町々の方の財界の混乱を顧みるいとまもないようであった。
「国もとへ、国もとへ。」
 その声は――解放された諸大名の家族が揚げるその歓呼は――過去三世紀間の威力を誇る東照宮の覇業《はぎょう》も、内部から崩《くず》れかけて行く時がやって来たかと思わせる。中には、一団の女中方が馬籠の町のなかだけを全部|徒歩《おひろい》で、街道の両側に群がる普通の旅行者や村の人たちの間を通り過ぎるのもある。桃から山桜へと急ぐ木曾の季節のなかで、薩州の御隠居、それから女中の通行のあとには、また薩州の簾中《れんちゅう》の通行も続いた。
[#改頁]

     第七章

       一

 文久《ぶんきゅう》三年は当時の排外熱の絶頂に達した年である。かねてうわさのあった将軍|家茂《いえもち》の上洛《じょうらく》は、その声のさわがしいまっ最中に行なわれた。
 二月十三日に将軍は江戸を出発した。時節柄、万事質素に、という触れ込みであったが、それでもその通行筋にあたる東海道では一時旅人の通行を禁止するほどの厳重な警戒ぶりで、三月四日にはすでに京都に到着し、三千あまりの兵に護《まも》られながら二条城にはいった。この京都訪問は、三代将軍|家光《いえみつ》の時代まで怠らなかったという入朝の儀式を復活したものであり、当時の常識とも言うべき大義名分の声に聴《き》いて幕府方においてもいささか鑑《かんが》みるところのあった証拠であり、王室に対する過去の非礼を陳謝する意味のものでもあって、同時に公武合体の意をいたし、一切の政務は従前どおり関東に委任するよしの御沙汰《ごさた》を拝するためであった。宮様御降嫁以来、帝《みかど》と将軍とはすでに義理ある御兄弟《ごきょうだい》の間柄である。もしこれが一層王室と将軍家とを結びつけるなかだちとなり、政令二途に出るような危機を防ぎ止め、動揺する諸藩の人心をしずめることに役立つなら、上洛に要する莫大《ばくだい》な費用も惜しむところではないと言って、関東方がこの旅に多くの望みをかけて行ったというに不思議はない。遠く寛永《かんえい》時代における徳川将軍の上洛と言えば、さかんな関東の勢いは一代を圧したもので、時の主上ですらわざわざ二条城へ行幸《ぎょうこう》せられたという。いよいよ将軍家|参内《さんだい》のおりには、多くの公卿《くげ》衆はお供の格で、いずれも装束《しょうぞく》着用で、先に立って案内役を勤めたものであったという。二百十余年の時はこの武将の位置を変えたばかりでなく、その周囲をも変えた。三条河原に残る示威のうわさに、志士浪人
前へ 次へ
全119ページ中105ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング