るで子供のようなよろこび方だ。この先輩が瓢箪から出る酒の音を口まねまでしてよろこぶところは、前の晩に拳《こぶし》を握り固め、五本の指を屈《かが》め、後ろから髻《たぶさ》でもつかむようにして、木像の首を引き抜く手まねをして見せながら等持院での現場の話を半蔵に聞かせたその同じ豪傑とも見えなかった。
 そればかりではない。京都|麩屋町《ふやまち》の染め物屋で伊勢久《いせきゅう》と言えば理解のある義気に富んだ商人として中津川や伊那地方の国学者で知らないもののない人の名が、この正香の口から出る。平田門人、三輪田綱一郎《みわたつないちろう》、師岡正胤《もろおかまさたね》なぞのやかましい連中が集まっていたという二条|衣《ころも》の棚《たな》――それから、同門の野代広助《のしろひろすけ》、梅村真一郎、それに正香その人をも従えながら、秋田藩|物頭役《ものがしらやく》として入京していた平田鉄胤が寓居《ぐうきょ》のあるところだという錦小路《にしきこうじ》――それらの町々の名も、この人の口から出る。伊那から出て、公卿《くげ》と志士の間の連絡を取ったり、宮廷に近づいたり、鉄胤門下としてあらゆる方法で国学者の運動を助けている松尾|多勢子《たせこ》のような婦人とも正香は懇意にして、その人が帯の間にはさんでいる短刀、地味な着物に黒繻子《くろじゅす》の帯、長い笄《こうがい》、櫛巻《くしま》きにした髪の姿までを話のなかに彷彿《ほうふつ》させて見せる。日ごろ半蔵が知りたく思っている師鉄胤や同門の人たちの消息ばかりでなく、京都の方の町の空気まで一緒に持って来たようなのも、この正香だ。
「そう言えば、青山君。」と正香は手にした木盃《もくはい》を下に置いて、膝《ひざ》をかき合わせながら言った。「君は和宮《かずのみや》さまの御降嫁あたりからの京都をどう思いますか。薩摩《さつま》が来る、長州が来る、土佐が来る、今度は会津が来る。諸大名が動いたから、機運が動いて来たと思うのは大違いさ。機運が動いたからこそ、薩州公などは鎮撫《ちんぶ》に向かって来たし、長州公はまた長州公で、藩論を一変して乗り込んで来た。そりゃ、君、和宮さまの御降嫁だっても、この機運の動いてることを関東に教えたのさ。ところが関東じゃ目がさめない。勅使|下向《げこう》となって、慶喜公は将軍の後見に、越前《えちぜん》公は政事総裁にと、手を取るように言って教えられて、ようやくいくらか目がさめましたろうさ。しかし、君、世の中は妙なものじゃありませんか。あの薩州公や、越前公や、それから土州公なぞがいくらやきもきしても、名君と言われる諸大名の力だけでこの機運をどうすることもできませんね。まあ薩州公が勅使を奉じて江戸の方へ行ってる間にですよ、もう京都の形勢は一変していましたよ。この正月の二十一日には、大坂にいる幕府方の名高い医者を殺して、その片耳を中山|大納言《だいなごん》の邸《やしき》に投げ込むものがある。二十八日には千種《ちぐさ》家の臣《けらい》を殺して、その右の腕を千種家の邸に、左の腕を岩倉家の邸に投げ込むものがある。攘夷の血祭りだなんて言って、そりゃ乱脈なものさ。岩倉様なぞが恐れて隠れるはずじゃありませんか。まあ京都へ行って見たまえ、みんな勝手な気焔《きえん》を揚げていますから。中にはもう関東なんか眼中にないものもいますから。こないだもある人が、江戸のようなところから来て見ると、京都はまるで野蛮人の巣だと言って、驚いていましたよ。そのかわり活気はあります。参政|寄人《よりうど》というような新しいお公家《くげ》様の政事団体もできたし、どんな草深いところから出て来た野人でも、学習院へ行きさえすれば時事を建白することができる。見たまえ――今の京都には、なんでもある。公武合体から破約攘夷まである。そんなものが渦《うず》を巻いてる。ところでこの公武合体ですが、こいつがまた眉唾物《まゆつばもの》ですて。そこですよ、わたしたちは尊王の旗を高く揚げたい。ほんとうに機運の向かうところを示したい。足利尊氏のような武将の首を晒《さら》しものにして見せたのも、実を言えばそんなところから来ていますよ。」
「暮田《くれた》さん。」と半蔵は相手の長い話をさえぎった。「鉄胤先生は、いったいどういう意見でしょう。」
「わたしたちの今度やった事件にですか。そりゃ君、鉄胤先生にそんな相談をすれば、笑われるにきまってる。だからわたしたちは黙って実行したんです。三輪田元綱がこの事件の首唱者なんですけれど、あの晩は三輪田は同行しませんでした。」
 沈黙が続いた。


 半蔵はそう長くこの珍客を土蔵の中に隠して置くわけに行かなかった。暮れないうちに早く馬籠を立たせ、すくなくもその晩のうちに清内路《せいないじ》までは行くことを教えねばならなかった。清内路まで行けば、
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