れて平田派の古学に目を見開いたという閲歴を持っている。信州北伊那郡小野村の倉沢義髄《くらさわよしゆき》を平田|鉄胤《かねたね》の講筵《こうえん》に導いたのも、この正香である。後に義髄は北伊那における平田派の先駆をなしたという関係から、南信地方に多い平田門人で正香の名を知らないものはない。
この人を裏の土蔵の方へ導こうとして、おまんは提灯《ちょうちん》を手にしながら先に立って行った。半蔵も蓙《ござ》や座蒲団《ざぶとん》なぞを用意してそのあとについた。
「足もとにお気をつけくださいよ。石段を降りるところなぞがございますよ。」
とおまんは客に言って、やがて土蔵の中に用でもあるように、大きな鍵《かぎ》で錠前をねじあけ、それを静かに抜き取った。金網の張ってある重い戸があくと、そこは半蔵夫婦が火災後しばらく仮住居《かりずまい》にもあてたところだ。蓙《ござ》でも敷けば、客のいるところぐらい設けられないこともなかった。
「お客さんはお腹《なか》がおすきでしたろうね。」
それとなくおまんが半蔵にきくと、正香はやや安心したというふうで、
「いや、したくは途中でして来ました。なにしろ、京都を出る時は、二昼夜歩き通しに歩いて、まるで足が棒のようでした。それから昼は隠れ、夜は歩くというようにして、ようやくここまでたどり着きました。」
おまんは提灯の灯《ひ》を片すみの壁に掛け、その土蔵の中に二人《ふたり》のものを置いて立ち去った。
「半蔵、お客さんの夜具はあとから運ばせますよ。」
との言葉をも残した。
「青山君、やりましたよ。」
二人ぎりになった時、正香はそんなことを言い出した。その調子が半蔵には、実に無造作にも、短気にも、とっぴにも、また思い詰めたようにも聞こえた。
同志九人、その多くは平田門人あるいは準門人であるが、等持院に安置してある足利尊氏《あしかがたかうじ》以下、二将軍の木像の首を抜き取って、二十三日の夜にそれを三条河原《さんじょうがわら》に晒《さら》しものにしたという。それには、今の世になってこの足利らが罪状の右に出るものがある、もし旧悪を悔いて忠節を抽《ぬき》んでることがないなら、天下の有志はこぞってその罪を糺《ただ》すであろうとの意味を記《しる》し添えたという。ところがこの事を企てた仲間のうちから、会津《あいづ》方(京都守護の任にある)の一人の探偵があらわれて、同志の中には縛に就《つ》いたものもある。正香は二昼夜兼行でその難をのがれて来たことを半蔵の前に白状したのであった。
正香に言わせると、将軍|上洛《じょうらく》の日も近い。三条河原の光景は、それに対する一つの示威である、尊王の意志の表示である、死んだ武将の木像の首を晒《さら》しものにするようなことは子供らしい戯れとも聞こえるが、しかしその道徳的な効果は大きい、自分らはそれをねらったのであると。
この先輩の大胆さには、半蔵も驚かされた。「物学びするともがら」の実行を思う心は、そこまで突き詰めて行ったかと考えさせられた。同時に、平田|大人《うし》没後の門人と一口には言っても、この先輩に水戸風な学者の影響の多分に残っていることは争えないとも考えさせられた。
「だれか君を呼ぶ声がする。」
正香は戸に近づく人のけはいを聞きとがめるようにして、耳のところへ手をあてがった。半蔵も耳を澄ました。お民だ。彼女は佐吉に手伝わせて客の寝道具をそこへ持ち運んで来た。
「暮田さん、非常にお疲れのようですから、これでわたしも失礼します。お話はあす伺います。お休みください。」
そのまま半蔵は正香のそばを離れて、母屋《もや》の方へ帰って行った。どれほどの人の動き始めたとも知れないような京都の方のことを考え、そこにある友人の景蔵のことなぞを考えて、その晩は彼もよく眠られなかった。
翌日の昼過ぎに、半蔵はこっそり正香を見に行った。御膳《ごぜん》何人前、皿《さら》何人前と箱書きのしてある器物の並んだ土蔵の棚《たな》を背後《うしろ》にして、蓙《ござ》を敷いた座蒲団の上に正香がさびしそうにすわっていた。前の晩に見た先輩の近づきがたい様子とも違って、多感で正直な感じのする一人の国学者をそこに見つけた。
その時、半蔵は腰につけて持って行った瓢箪《ふくべ》を取り出した。木盃《もくはい》を正香の前に置いた。くたぶれて来た旅人をもてなすようにして、酒を勧めた。
「ほ。」と正香は目をまるくして、「君はめずらしいものをごちそうしてくれますね。」
「これは馬籠の酒です。伏見屋と桝田屋《ますだや》と、二軒で今造っています。一つ山家の酒を味わって見てください。」
「どうも瓢箪のように口の小さいものから出る酒は、音からして違いますね。コッ、コッ、コッ、コッ――か。長道中でもして来た時には、これが何よりですよ。」
ま
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