の殿様、家老、用人、その時の同勢はおびただしい人数で、行列も立派ではあったが、もはや先代井伊|掃部頭《かもんのかみ》が彦根の城主としてよくこの木曾路を往来したころのような気勢は揚がらない。そこへ行くと、千段巻《せんだんまき》の柄《え》のついた黒鳥毛《くろとりげ》の鎗《やり》から、永楽通宝《えいらくつうほう》の紋じるしまで、はげしい意気込みでやって来た長州人は彦根の人たちといちじるしい対照を見せる。
その日、半蔵は父の名代として、隣家の伊之助や問屋の九郎兵衛と共に、一行を宿はずれの石屋の坂あたりまで見送り、そこから家に引き返して来て、父の部屋《へや》をのぞきに行った。病床から半ば身を起こしかけている吉左衛門は山の中へ来る六月の暑さにも疲れがちであった。半蔵は一度倒れたこの父が回復期に向かいつつあるというだけにもやや胸をなでおろして、なるべく頭を悩まさせるようなことは父の耳に入れまいとした。京都の方にある景蔵からは、容易ならぬ彼地《かのち》の形勢を半蔵のところへ報じて来た。伏見寺田屋の変をも知らせて来た。王政復古と幕府討伐の策を立てた八人の壮士があの伏見の旅館で斃《たお》れたことをも知らせて来た。公武間の周旋をもって任ずる千余人の薩摩の精兵が藩主に引率されて来た時は、京都の町々はあだかも戒厳令の下にあったことをも知らせて来た。しかし半蔵は何事も父の耳に入れなかった。夕方に、彼は雪隠《せっちん》へ用を達《た》しに行って、南側の廊下を通った。長州藩主がその日の泊まりと聞く中津川の町の方は早く暮れて、遠い夕日の反射が西の空から恵那山の大きな傾斜に映るのを見た。
病後の吉左衛門には、まだ裏の二階へ行って静養するほどの力がない。あの先代半六が隠居所となっていた味噌納屋の二階への梯子段《はしごだん》を昇《のぼ》ったり降りたりするには、足もとがおぼつかなかった。
この父は四月の発病以来、ずっと寛《くつろ》ぎの間《ま》に臥《ね》たり起きたりしている。その部屋は風呂場《ふろば》に近い。家のものが入浴を勧めるには都合がよい。一方は本陣の囲炉裏ばたや勝手に続いている。みんなで看護するにも都合がよい。そのかわり朝に晩に用談なぞを持ち込む人たちが出たりはいったりして、半蔵としてはいつまでも父の寝床をその部屋に敷いて置くことを好まなかった。どうかすると頭を冷やせの、足を温《あたた》めろのという父を見るたびに、半蔵は悲しがった。さびしい病後のつれづれから、父は半蔵に向かっていろいろ耳にしたことの説明を求める。六十四歳の晩年になってこんな思いがけない中風にかかったというふうに。まだ退役願いもきき届けられない馬籠の駅長の身で、そうそう半蔵任せにして置かれないというふうにも。半蔵は京都や江戸にある平田同門の人たちからいろいろな報告を受けて、そのたびに山の中に辛抱してはいられぬような心持ちにもなるが、また思い返しては本陣問屋庄屋の父の代わりを勤めた。
中津川の会議が開かれて、長藩の主従が従来の方針を一変し、吉田松陰以来の航海遠略から破約攘夷へと大きく方向の転換を試み始めたのも、それから藩主の上京となって、公卿《くげ》を訪《おとな》い朝廷の御機嫌《ごきげん》を伺い、すでに勅使を関東に遣《つか》わされているから、薩藩と共に叡慮《えいりょ》の貫徹に尽力せよとの御沙汰《ごさた》を賜わったのも、六月の二十日から七月へかけてのことであった。薩藩と共に輦下《れんか》警衛の任に当たることにかけては、京都の屋敷にある世子《せいし》定広がすでにその朝命を拝していた。薩長二藩のこれらの一大飛躍は他藩の注意をひかずには置かない。ようやく危惧《きぐ》の念を抱き始めたものもある。強い刺激を受けたものもある。こういう中にあって、薩長二藩の京都手入れから最も強い刺激を受けたものは、言うまでもなく幕府側にある人たちであらねばならない。従来幕府は事あるごとに京都に向かって干渉するのを常とした。今度勅使の下向《げこう》を江戸に迎えて見ると、かねて和宮様御降嫁のおりに堅く約束した蛮夷防禦《ばんいぼうぎょ》のことが勅旨の第一にあり、あわせて将軍の上洛《じょうらく》、政治の改革にも及んでいて、幕府としては全く転倒した位置に立たせられた。干渉は実に京都から来た。しかも数百名の薩摩隼人《さつまはやと》を引率する島津久光を背景にして迫って来た。この干渉は幕府にある上のものにも下のものにも強い衝動を与えた。その衝動は、多年の情実と弊害とを払いのけることを教えた。もっと政治は明るくしなければだめだということを教えた。
時代はおそろしい勢いで急転しかけて来た。かつて岩瀬肥後が井伊大老と争って、政治|生涯《しょうがい》を賭《と》してまで擁立しようとした一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》は将軍の後見に、越前《えちぜん
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