ギリスのアールコックにせよ、彼らに接して滞ることなく、屈することもなく、外国公使らの専横を挫《くじ》いて、凜然《りんぜん》とした態度を持ち続けたことにかけては、老中の右に出るものはなかったと言い出したものもあった。
 幕府はすでに憚《はばか》るべき人と、憚るべき実《じつ》とがない。井伊大老は斃《たお》れ、岩瀬肥後は喀血《かっけつ》して死し、安藤老中までも傷ついた。四方の侮りが競うように起こって来て、儒者は経典の立場から、武士剣客は士道の立場から、その他医者、神職、和学者、僧侶《そうりょ》なぞの思い思いに勝手な説を立てるものがあっても、幕府ではそれを制することもできないようになって来た。この中で、露国《ろこく》の船将が対馬尾崎浦《つしまおざきうら》に上陸し駐屯《ちゅうとん》しているとの報知《しらせ》すら伝わった。港は鎖《とざ》せ、ヨーロッパ人は打ち攘《はら》え、その排外の風がいたるところを吹きまくるばかりであった。

       四

 一人《ひとり》の旅人が京都の方面から美濃の中津川まで急いで来た。
 この旅人は、近くまで江戸桜田邸にある長州の学塾|有備館《ゆうびかん》の用掛《ようがか》りをしていた男ざかりの侍である。かねて長州と水戸との提携を実現したいと思い立ち、幕府の嫌疑《けんぎ》を避くるため品川沖合いの位置を選び、長州の軍艦|丙辰丸《へいしんまる》の艦長と共に水戸の有志と会見した閲歴を持つ人である。坂下門外の事変にも多少の関係があって、水戸の有志から安藤老中要撃の相談を持ちかけられたこともあったが、後にはその暴挙に対して危惧《きぐ》の念を抱《いだ》き、次第に手を引いたという閲歴をも持つ人である。
 中津川の本陣では、半蔵が年上の友人景蔵も留守のころであった。景蔵は平田門人の一人として、京都に出て国事に奔走しているころであったからで。この旅人は恵那山《えなさん》を東に望むことのできるような中津川の町をよろこび、人の注意を避くるにいい位置にある景蔵の留守宅を選んで、江戸|麻布《あざぶ》の長州屋敷から木曾街道経由で上京の途にある藩主(毛利慶親《もうりよしちか》)をそこに待ち受けていた。その目的は、京都の屋敷にある長藩|世子《せいし》(定広)の内命を受けて、京都の形勢の激変したことを藩主に報じ、かねての藩論なる公武合体、航海遠略の到底実行せらるべくもないことを進言するためであった。それよりは従来の方針を一変し、大いに破約攘夷を唱うべきことを藩主に説き勧めるためであった。雄藩|擡頭《たいとう》の時機が到ったことは、長いことその機会を待っていた長州人士を雀躍《こおどり》させたからで。
 旅にある藩主はそれほど京都の形勢が激変したとは知らない。まして、そんな旅人が世子《せいし》の内命を帯びて、中津川に自分を待つとは知らない。さきに幕府への建白の結果として、公武間周旋の依頼を幕府から受け、いよいよ正式にその周旋を試みようとして江戸を出発して来たのであった。この大名は、日ごろの競争者で薩摩《さつま》に名高い中将|斎彬《なりあきら》の弟にあたる島津久光《しまづひさみつ》がすでにその勢力を京都の方に扶植し始めたことを知り、さらに勅使|左衛門督《さえもんのかみ》大原|重徳《しげのり》を奉じて東下して来たほどの薩摩人の活躍を想像しながら、その年の六月中旬には諏訪《すわ》にはいった。あだかも痳疹《はしか》流行のころである。一行は諏訪に三日|逗留《とうりゅう》し、同勢四百人ほどをあとに残して置いて、三留野《みどの》泊まりで木曾路を上って来た。馬籠本陣の前まで来ると、そこの門前には諸大名通行のおりの定例のように、すでに用意した札の掲げてあるのを見た。
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松平大膳太夫《まつだいらだいぜんだゆう》様 御休所
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 松平大膳太夫とあるは、この大名のことで、長門国《ながとのくに》三十六万九千石の領主を意味する。
 その時、半蔵は出て、一行の中の用人に挨拶《あいさつ》した。
「わたしは吉左衛門の忰《せがれ》でございます。父はこの四月から中風《ちゅうふう》にかかりまして、今だに床の上に臥《ね》たり起きたりしております。お昼は申し付けてございますが、何か他に御用もありましたら、わたしが承りましょう。」
「御主人は御病気か。それはおだいじに。ここから中津川まで何里ほどありましょう。」
「三里と申しております。ここの峠からは下りでございますから、そうお骨は折れません。」
 この半蔵の言葉を聞くと、用人は本陣の門の内外を警衛する人たちに向かって、
「諸君、中津川まではもう三里だそうですよ。ここで昼食をやってください。」
 と呼んだ。
 馬籠の宿ではその日より十日ほど前に、彦根藩の幼主が江戸出府を送ったばかりの時であった。十六歳
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