決死の壮士六人、あの江戸城の外のお濠《ほり》ばたの柳の樹《き》のかげに隠れていたのは正月十五日とあるから、山家のことで言えば左義長《さぎちょう》の済むころであるが、それらの壮士が老中安藤対馬の登城を待ち受けて、まず銃で乗り物を狙撃《そげき》した。それが当たらなかったので、一人の壮士が馳《は》せ寄って、刀を抜いて駕籠《かご》を横から突き刺した。安藤対馬は運強く、重傷を被りながらも坂下門内に駆け入って、わずかに身をもって難をまぬかれた。この要撃の光景をまるで見て来たように言い伝えるものがある。
「またか。」
という吉左衛門にも、思わず父と顔を見合わせる半蔵の胸にも、桜田事変当時のことが来た。
刺客はいずれも斬奸《ざんかん》趣意書なるものを懐《ふところ》にしていたという。これは幕府の手で秘密に葬られようとしたが、六人のほかに長州屋敷へ飛び込んで自刃《じじん》した壮士の懐から出て来たもので明らかにされ、それからそれへと伝えられるようになった。それには申年《さるどし》の三月に赤心報国の輩《ともがら》が井伊大老を殺害に及んだことは毛頭《もうとう》も幕府に対し異心をはさんだのではないということから書き初めて、彼らの態度を明らかにしてあったという。彼らから見れば、井伊大老は夷狄《いてき》を恐怖する心から慷慨《こうがい》忠直の義士を憎み、おのれの威力を示そうがために奸謀《かんぼう》をめぐらし、天朝をも侮る神州の罪人である、そういう奸臣を倒したなら自然と幕府においても悔いる心ができて、これからは天朝を尊び夷狄を憎み、国家の安危と人心の向背《こうはい》にも注意せらるるであろうとの一念から、井伊大老を目がけたものはいずれも身命を投げ捨てて殺害に及んだのである、ところがその後になっても幕府には一向に悔心の模様は見えない、ますます暴政のつのるようになって行ったのは、幕府役人一同の罪ではあるが、つまりは老中安藤対馬こそその第一の罪魁《ざいかい》であるという意味のことが書いてあったという。その趣意書には、老中の罪状をもあげて、皇妹和宮様が御結婚のことも、おもてむきは天朝より下し置かれたように取り繕い、公武合体の姿を示しながら、実は奸謀と威力とをもって強奪し奉ったも同様である、これは畢竟《ひっきょう》皇妹を人質にして外国交易の勅諚《ちょくじょう》を強請する手段であり、もしそれもかなわなかったら帝の御譲位をすら謀《はか》ろうとする心底であって、実に徳川将軍を不義に引き入れ、万世の後までも悪逆の名を流させようとする行為である、北条《ほうじょう》足利《あしかが》にもまさる逆謀というのほかはない、これには切歯《せっし》痛憤、言うべき言葉もないという意味のことが書いてあったという。その中にはまた、外夷《がいい》取り扱いのことをあげて、安藤老中は何事も彼らの言うところに従い、日本沿海の測量を許し、この国の形勢を彼らへ教え、江戸第一の要地ともいうべき品川御殿山を残らず彼らに貸し渡し、あまつさえ外夷の応接には骨肉も同様な親切を見せながら、自国にある忠義憂憤の者はかえって仇敵《きゅうてき》のように忌みきらい、国賊というにも余りあるというような意味のことが書いてあったという。
しかし決死の壮士が書きのこしたものは、ただそれだけの意味にとどまらなかった。その中には「明日」への不安が、いろいろと書きこめてあったともいう。もし今日のままで弊政を改革することもなかったら、天下の大小名はおのおの幕府を見放して、自己の国のみを固めるようになって行くであろう、外夷の取り扱いにさえ手に余るおりから、これはどう処置するつもりであろうという意味のことも書いてあり、万一|攘夷《じょうい》を名として旗を挙《あ》げるような大名が出て来たら、それこそ実に危急の時である、幕府では皇国の風俗というものを忘れてはならぬ、君臣上下の大義をわきまえねばならぬ、かりそめにも天朝の叡意《えいい》にそむくようなところが見えたら、忠臣義士の輩《ともがら》は一人も幕府のために身命をなげうつものはあるまいという意味のことも書きのこしてあったという。
これらの刺客の多くが水戸人であることもわかって来た。いずれも三十歳前後の男ざかりで、中には十九歳の青年がこの要撃に加わっていたこともわかって来た。安藤対馬の災難は不思議にもその傷が軽くて済んだが、多くの人の同情は生命拾《いのちびろ》いをした老中よりも、現場に斃《たお》れた青年たちの上に集まる。しかし、その人の傷ついたあとになって見ると、一方には世間の誤解や無根の流言がこの悲劇を生む因《もと》であったと言って、こんなに思い詰めた壮士らの暴挙を惜しむと言い出したものもあった。安藤対馬その人を失ったら、あれほど外交の事に当たりうるものは他に見いだせない、アメリカのハリスにせよ、イ
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