》藩主|松平春嶽《まつだいらしゅんがく》は政事総裁の職に就《つ》くようになった。これまで幕府にあってとかくの評判のあった安藤対馬《あんどうつしま》、およびその同伴者なる久世大和《くぜやまと》の二人《ふたり》は退却を余儀なくされた。天朝に対する過去の非礼を陳謝し、協調の誠意を示すという意味で、安藤久世の二人は隠居|急度慎《きっとつつし》みの罰の薄暗いところへ追いやられたばかりでなく、あれほどの大獄を起こして一代を圧倒した井伊大老ですら追罰を免れなかった。およそ安政、万延のころに井伊大老を手本とし、その人の家の子郎党として出世した諸有司の多くは政治の舞台から退却し始めた。あるものは封《ほう》一万石を削られ、あるものは禄《ろく》二千石を削られた。あるものはまた、隠居、蟄居《ちっきょ》、永蟄居《えいちっきょ》、差扣《さしひか》えというふうに。
 この周囲の空気の中で、半蔵は諸街道宿駅の上にまであらわれて来るなんらかの改変を待ち受けながら、父が健康の回復を祈っていた。発病後は父も日ごろ好きな酒をぱったりやめ、煙草《たばこ》もへらし、わずかに俳諧《はいかい》や将棋の本なぞをあけて朝夕の心やりとしている。何かこの父を慰めるものはないか、と半蔵は思っているところへ、ちょうど人足四人持ちで、大きな籠《かご》を本陣の門内へかつぎ入れた宰領があった。
 宰領は半蔵の前に立って言った。
「旦那《だんな》、これは今度、公儀から越前様へ御拝領になった綿羊《めんよう》というものです。めずらしい獣です。わたしたちはこれを送り届けにまいる途中ですが、しばらくお宅の庭で休ませていただきたい。」
 江戸の方からそこへかつがれて来たのは、三|疋《びき》の綿羊だ。こんな木曾山の中へは初めて来たものだ。早速《さっそく》半蔵はお民を呼んで、表玄関の広い板の間に座蒲団《ざぶとん》を敷かせ、そこに父の席をつくった。
「みんな、おいで。」
 とおまんも孫たちを呼んだ。
「越前様の御拝領かい。」と言いながら、吉左衛門は奥の方から来てそこへ静かにすわった。「越前様といえば、五月の十一日にこの街道をお通りになったじゃないか。おれは寝ていてお目にもかからなかったが、今度政事総裁職になったのもあのお大名だね。」
 ちょっとしたことにも吉左衛門はそれをこの街道に結びつけて、諸大名の動きを読もうとする。
「あなたはそれだから、いけない。」とおまんは言った。「病気する時には病気するがいいなんて自分で言っていながら、そう気をつかうからいけない。まあ、このやさしい羊の目を御覧なさい。」
 街道では痲疹《はしか》の神を送ったあとで、あちこちに病人や死亡者を出した流行病の煩《わずら》いから、みんなようやく一息ついたところだ。その年の渋柿《しぶがき》の出来のうわさは出ても、京都と江戸の激しい争いなぞはどこにあるかというほど穏やかな日もさして来ている。宰領の連れて来た三疋の綿羊が籠《かご》の中で顔を寄せ、もぐもぐ鼻の先を動かしているのを見ると、動物の好きなお粂《くめ》や宗太は大騒ぎだ。持病の咳《せき》で引きこもりがちな金兵衛まで上の伏見屋からわざわざ見に出かけて来て、いつのまにか本陣の門前には多勢の人だかりがした。
「金兵衛さん、こういうめずらしい羊が日本に渡って来るようになったかと思うと、世の中も変わるはずですね。わたしは生まれて初めてこんな獣を見ます。」
 と吉左衛門は言って、なんとなく秋めいた街道の空を心深げにながめていた。


「半蔵、まあ見てくれよ。おれの足はこういうものだよ。」
 と言って、病み衰えた右の足を半蔵の前に出して見せるころは、吉左衛門もめっきり元気づいた。早く食事を済ました夕方のことだ。付近の村々へは秋の祭礼の季節も来ていた。
「お父《とっ》さんが病気してから、もう百四十日の余になりますものね。」
 半蔵は試みに、自分の前にさし出された父の足をなでて見た。健脚でこの街道を奔走したころの父の筋肉はどこへ行ったかというようになった。発病の当時、どっと床についたぎり、五十日あまりも安静にしていたあげくの人だ。堅く隆起していたような足の「ふくらっぱぎ」も今は子供のそれのように柔らかい。
「ひどいものじゃないか。」と吉左衛門は自分の足をしまいながら言った。「人が中気《ちゅうき》すると、右か左か、どっちかをやられると聞いてるが、おれは右の方をやられた。そう言えば、おれは耳まで右の方が遠くなったようだぞ。」と笑って、気を変えて、「しかし、きょうはめずらしくよい気持ちだ。おれは金兵衛さんのところへお風呂《ふろ》でももらいに行って来る。」
 これほど父の元気づいたことは、ひどく半蔵をよろこばせた。
「お父《とっ》さん、わたしも一緒に行きましょう。」
 と彼もたち上がった。
 この親子の胸には、江戸の
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