った。黒光りのするほどよく拭《ふ》き込んであるその箱梯子も伏見屋らしいものだ。西向きの二階の部屋《へや》には、金兵衛が先代の遺物と見えて、美濃派の俳人らの寄せ書きが灰汁抜《あくぬ》けのした表装にして壁に掛けてある。八人のものが集まって馬籠風景の八つの眺《なが》めを思い思いの句と画の中に取り入れたものである。この俳味のある掛け物の前に行って立つことも、吉左衛門をよろこばせた。
夕飯。お玉は膳《ぜん》を運んで来た。ほんの有り合わせの手料理ながら、青みのある新しい野菜で膳の上を涼しく見せてある。やがて酒もはじまった。
「吉左衛門さん、何もありませんが召し上がってくださいな。」とお玉が言った。「吾家《うち》の鶴松《つるまつ》も出まして、お世話さまでございます。」
「さあ、一杯やってください。」と言って、金兵衛はお玉を顧みて、「吉左衛門さんはお前、苗字《みょうじ》帯刀御免ということになったんだよ。今までの吉左衛門さんとは違うよ。」
「それはおめでとうございます。」
「いえ。」と吉左衛門は頭をかいて、「苗字帯刀もこう安売りの時世になって来ては、それほどありがたくもありません。」
「でも、悪い気持ちはしないでしょう。」と金兵衛は言った。「二本さして、青山吉左衛門で通る。どこへ出ても、大威張《おおいば》りだ。」
「まあ、そう言わないでくれたまえ。それよりか、盃《さかずき》でもいただこうじゃありませんか。」
吉左衛門も酒はいける口であり、それに勧め上手《じょうず》なお玉のお酌《しゃく》で、金兵衛とさしむかいに盃を重ねた。その二階は、かつて翁塚《おきなづか》の供養のあったおりに、落合の宗匠|崇佐坊《すさぼう》まで集まって、金兵衛が先代の記念のために俳席を開いたところだ。そう言えば、吉左衛門や金兵衛の旧《むかし》なじみでもはやこの世にいない人も多い。馬籠の生まれで水墨の山水や花果などを得意にした画家の蘭渓《らんけい》もその一人《ひとり》だ。あの蘭渓も、黒船騒ぎなぞは知らずに亡《な》くなった。
「お玉さんの前ですが。」と吉左衛門は言った。「こうして御酒《ごしゅ》でもいただくと、実に一切を忘れますよ。わたしはよく思い出す。金兵衛さん、ほら、あのアトリ(※[#「けものへん+臈のつくり」、第3水準1−87−81]子鳥)三十羽に、茶漬《ちゃづ》け三杯――」
「それさ。」と金兵衛も思い出したように、「わたしも今それを言おうと思っていたところさ。」
アトリ三十羽に茶漬け三杯。あれは嘉永《かえい》二年にあたる。山里では小鳥のおびただしく捕《と》れた年で、ことに大平村《おおだいらむら》の方では毎日三千羽ずつものアトリが驚くほど鳥網にかかると言われ、この馬籠の宿までたびたび売りに来るものがあった。小鳥の名所として土地のものが誇る木曾の山の中でも、あんな年はめったにあるものでなかった。仲間のものが集まって、一興を催すことにしたのもその時だ。そのアトリ三十羽に、茶漬け三杯食えば、褒美《ほうび》として別に三十羽もらえる。もしまた、その三十羽と茶漬け三杯食えなかった時は、あべこべに六十羽差し出さなければならないという約束だ。場処は蓬莱屋《ほうらいや》。時刻は七つ時《どき》。食い手は吉左衛門と金兵衛の二人。食わせる方のものは組頭《くみがしら》笹屋《ささや》の庄兵衛《しょうべえ》と小笹屋《こざさや》の勝七。それには勝負を見届けるものもなくてはならぬ。蓬莱屋の新七がその審判官を引き受けた。さて、食った。約束のとおり、一人で三十羽、茶漬け三杯、残らず食い終わって、褒美の三十羽ずつは吉左衛門と金兵衛とでもらった。アトリは形もちいさく、骨も柔らかく、鶫《つぐみ》のような小鳥とはわけが違う。それでもなかなか食いではあったが、二人とも腹もはらないで、その足で会所の店座敷へ押し掛けてたくさん茶を飲んだ。その時の二人の年齢もまた忘れられずにある。吉左衛門は五十一歳、金兵衛は五十三歳を迎えたことであった。二人はそれほど盛んな食欲を競い合ったものだ。
「あんなおもしろいことはなかった。」
「いや、大笑いにも、なんにも。あんなおもしろいことは前代|未聞《みもん》さ。」
「出ましたね、金兵衛さんの前代未聞が――」
こんな話も酒の上を楽しくした。隣人同志でもあり、宿役人同志でもある二人の友だちは、しばらく街道から離れる思いで、尽きない夜咄《よばなし》に、とろろ汁に、夏の夜のふけやすいことも忘れていた。
馬籠《まごめ》の宿《しゅく》で初めて酒を造ったのは、伏見屋でなくて、桝田屋《ますだや》であった。そこの初代と二代目の主人、惣右衛門《そうえもん》親子のものであった。桝田屋の親子が協力して水の量目を計ったところ、下坂川《おりさかがわ》で四百六十目、桝田屋の井戸で四百八十目、伏見屋の井戸で四百九十目あ
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