て通行の前触れだ。間もなくこの街道では江戸出府の尾張《おわり》の家中を迎えた。尾張藩主(徳川|慶勝《よしかつ》)の名代《みょうだい》、成瀬《なるせ》隼人之正《はやとのしょう》、その家中のおびただしい通行のあとには、かねて待ち受けていた彦根の家中も追い追いやって来る。公儀の御茶壺《おちゃつぼ》同様にとの特別扱いのお触れがあって、名古屋城からの具足《ぐそく》長持《ながもち》が十棹《とさお》もそのあとから続いた。それらの警護の武士が美濃路《みのじ》から借りて連れて来た人足だけでも、百五十人に上った。継立《つぎた》ても難渋であった。馬籠の宿場としては、山口村からの二十人の加勢しか得られなかった。例の黒船はやがて残らず帰って行ったとやらで、江戸表へ出張の人たちは途中から引き返して来るものがある。ある朝|馬籠《まごめ》から送り出した長持は隣宿の妻籠《つまご》で行き止まり、翌朝中津川から来た長持は馬籠の本陣の前で立ち往生する。荷物はそれぞれ問屋預けということになったが、人馬継立ての見分《けんぶん》として奉行《ぶぎょう》まで出張して来るほど街道はごたごたした。
 狼狽《ろうばい》そのもののようなこの混雑が静まったのは、半月ほど前にあたる。浦賀へ押し寄せて来た唐人船も行くえ知れずになって、まずまず恐悦《きょうえつ》だ。そんな報知《しらせ》が、江戸方面からは追い追いと伝わって来たころだ。
 吉左衛門は金兵衛を相手に、伏見屋の店座敷で話し込んでいると、ちょうどそこへ警護の武士を先に立てた尾張の家中の一隊が西から街道を進んで来た。吉左衛門と金兵衛とは談話《はなし》半ばに伏見屋を出て、この一隊を迎えるためにほかの宿役人らとも一緒になった。尾張の家中は江戸の方へ大筒《おおづつ》の鉄砲を運ぶ途中で、馬籠の宿の片側に来て足を休めて行くところであった。本陣や問屋の前あたりは檜木笠《ひのきがさ》や六尺棒なぞで埋《うず》められた。騎馬から降りて休息する武士もあった。肌《はだ》脱ぎになって背中に流れる汗をふく人足たちもあった。よくあの重いものをかつぎ上げて、美濃境《みのざかい》の十曲峠《じっきょくとうげ》を越えることができたと、人々はその話で持ちきった。吉左衛門はじめ、金兵衛らはこの労苦をねぎらい、問屋の九太夫はまた桝田屋《ますだや》の儀助らと共にその間を奔《はし》り回って、隣宿妻籠までの継立てのことを斡旋《あっせん》した。
 村の人たちは皆、街道に出て見た。その中に半蔵もいた。彼は父の吉左衛門に似て背《せい》も高く、青々とした月代《さかやき》も男らしく目につく若者である。ちょうど暑さの見舞いに村へ来ていた中津川の医者と連れだって、通行の邪魔にならないところに立った。この医者が宮川《みやがわ》寛斎《かんさい》だ。半蔵の旧《ふる》い師匠だ。その時、半蔵は無言。寛斎も無言で、ただ医者らしく頭を円《まる》めた寛斎の胸のあたりに、手にした扇だけがわずかに動いていた。
「半蔵さん。」
 上の伏見屋の仙十郎もそこへ来て、考え深い目つきをしている半蔵のそばに立った。目方百十五、六貫ばかりの大筒《おおづつ》の鉄砲、この人足二十二人がかり、それに七人がかりから十人がかりまでの大筒五|挺《ちょう》、都合六挺が、やがて村の人々の目の前を動いて行った。こんなに諸藩から江戸の邸《やしき》へ向けて大砲を運ぶことも、その日までなかったことだ。
 間もなく尾張の家中衆は見えなかった。しかし、不思議な沈黙が残った。その沈黙は、何が江戸の方に起こっているか知れないような、そんな心持ちを深い山の中にいるものに起こさせた。六月以来|頻繁《ひんぱん》な諸大名の通行で、江戸へ向けてこの木曾街道を経由するものに、黒船騒ぎに関係のないものはなかったからで。あるものは江戸湾一帯の海岸の防備、あるものは江戸城下の警固のためであったからで。
 金兵衛は吉左衛門の袖《そで》を引いて言った。
「いや、お帰り早々、いろいろお骨折りで。まあ、おかげでお継立《つぎた》ても済みました。今夜は御苦労呼びというほどでもありませんが、お玉のやつにしたくさせて置きます。あとでおいでを願いましょう。そのかわり、吉左衛門さん、ごちそうは何もありませんよ。」


 酒のさかな。胡瓜《きゅうり》もみに青紫蘇《あおじそ》。枝豆。到来物の畳《たた》みいわし。それに茄子《なす》の新漬《しんづ》け。飯の時にとろろ汁《じる》。すべてお玉の手料理の物で、金兵衛は夕飯に吉左衛門を招いた。
 店座敷も暑苦しいからと、二階を明けひろげて、お玉はそこへ二人《ふたり》の席を設けた。山家風《やまがふう》な風呂《ふろ》の用意もお玉の心づくしであった。招かれて行った吉左衛門は、一風呂よばれたあとのさっぱりとした心持ちで、広い炉ばたの片すみから二階への箱梯子《はこばしご》を登
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