たちがいやな臭気《におい》をもかいで帰って来た。苗字帯刀を勘定所のやり繰り算段に替えられることは、吉左衛門としてあまりいい心持ちはしなかった。
「金兵衛さん、君には察してもらえるでしょうが、庄屋《しょうや》のつとめも辛《つら》いものだと思って来ましたよ。」
吉左衛門の述懐だ。
その時、上《かみ》の伏見屋の仙十郎《せんじゅうろう》が顔を出したので、しばらく二人《ふたり》はこんな話を打ち切った。仙十郎は金兵衛の仕事を手伝わされているので、ちょっと用事の打ち合わせに来た。金兵衛を叔父《おじ》と呼び、吉左衛門を義理ある父としているこの仙十郎は伏見家から分家して、別に上の伏見屋という家を持っている。年も半蔵より三つほど上で、腰にした煙草入《たばこい》れの根付《ねつけ》にまで新しい時の流行《はやり》を見せたような若者だ。
「仙十郎、お前も茶でも飲んで行かないか。」
と金兵衛が言ったが、仙十郎は吉左衛門の前に出ると妙に改まってしまって、茶も飲まなかった。何か気づまりな、じっとしていられないようなふうで、やがてそこを出て行った。
吉左衛門は見送りながら、
「みんなどういう人になって行きますかさ――仙十郎にしても、半蔵にしても。」
若者への関心にかけては、金兵衛とても吉左衛門に劣らない。アメリカのペリイ来訪以来のあわただしさはおろか、それ以前からの周囲の空気の中にあるものは、若者の目や耳から隠したいことばかりであった。殺人、盗賊、駈落《かけおち》、男女の情死、諸役人の腐敗|沙汰《ざた》なぞは、この街道でめずらしいことではなくなった。
同宿三十年――なんと言っても吉左衛門と金兵衛とは、その同じ駅路の記憶につながっていた。この二人に言わせると、日ごろ上に立つ人たちからやかましく督促せらるることは、街道のよい整理である。言葉をかえて言えば、封建社会の「秩序」である。しかしこの「秩序」を乱そうとするものも、そういう上に立つ人たちからであった。博打《ばくち》はもってのほかだという。しかし毎年の毛付《けづ》け(馬市)を賭博場《とばくじょう》に公開して、土地の繁華を計っているのも福島の役人であった。袖《そで》の下はもってのほかだという。しかし御肴代《おさかなだい》もしくは御祝儀《ごしゅうぎ》何両かの献上金を納めさせることなしに、かつてこの街道を通行したためしのないのも日光への例幣使であった。人殺しはもってのほかだという。しかし八沢《やさわ》の長坂の路傍《みちばた》にあたるところで口論の末から土佐《とさ》の家中《かちゅう》の一人を殺害し、その仲裁にはいった一人の親指を切り落とし、この街道で刃傷《にんじょう》の手本を示したのも小池《こいけ》伊勢《いせ》の家中であった。女は手形《てがた》なしには関所をも通さないという。しかし木曾路を通るごとに女の乗り物を用意させ、見る人が見ればそれが正式な夫人のものでないのも彦根《ひこね》の殿様であった。
「あゝ。」と吉左衛門は嘆息して、「世の中はどうなって行くかと思うようだ。あの御勘定所のお役人なぞがお殿様からのお言葉だなんて、献金の世話を頼みに出張して来て、吾家《うち》の床柱の前にでもすわり込まれると、わたしはまたかと思う。しかし、金兵衛さん、そのお役人の行ってしまったあとでは、わたしはどんな無理なことでも聞かなくちゃならないような気がする……」
東海道浦賀の方に黒船の着いたといううわさを耳にした時、最初吉左衛門や金兵衛はそれほどにも思わなかった。江戸は大変だということであっても、そんな騒ぎは今にやむだろうぐらいに二人とも考えていた。江戸から八十三里の余も隔たった木曾の山の中に住んで、鎖国以来の長い眠りを眠りつづけて来たものは、アメリカのような異国の存在すら初めて知るくらいの時だ。
この街道に伝わるうわさの多くは、諺《ことわざ》にもあるようにころがるたびに大きな塊《かたまり》になる雪達磨《ゆきだるま》に似ている。六月十日の晩に、彦根の早飛脚が残して置いて行ったうわさもそれで、十四日には黒船八十六|艘《そう》もの信じがたいような大きな話になって伝わって来た。寛永《かんえい》十年以来、日本国の一切の船は海の外に出ることを禁じられ、五百石以上の大船を造ることも禁じられ、オランダ、シナ、朝鮮をのぞくほかは外国船の来航をも堅く禁じてある。その国のおきてを無視して、故意にもそれを破ろうとするものがまっしぐらにあの江戸湾を望んで直進して来た。当時幕府が船改めの番所は下田《しもだ》の港から浦賀の方に移してある。そんな番所の所在地まで知って、あの唐人船《とうじんぶね》がやって来たことすら、すでに不思議の一つであると言われた。
様々な流言が伝わって来た。宿役人としての吉左衛門らはそんな流言からも村民をまもらねばならなかった。やが
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