ったという。その中で下坂川の水をくんで、惣右衛門親子は初めて造り酒の試みに成功した。馬籠の水でも良い酒のできることを実際に示したのも親子二人のものであった。それまで馬籠には造り酒屋というものはなかった。
この惣右衛門親子は、村の百姓の中から身を起こして無遠慮に頭を持ち上げた人たちであるばかりでなく、後の金兵衛らのためにも好《よ》かれ悪《あ》しかれ一つの進路を切り開いた最初の人たちである。桝田屋の初代が伏見屋から一軒置いて上隣りの街道に添うた位置に大きな家を新築したのは、宝暦七年の昔で、そのころに初代が六十五歳、二代目が二十五歳であった。親代々からの百姓であった初代惣右衛門が本家の梅屋から分かれて、別に自分の道を踏み出したのは、それよりさらに四十年も以前のことにあたる。
馬籠は田畠《たはた》の間にすら大きくあらわれた石塊《いしころ》を見るような地方で、古くから生活も容易でないとされた山村である。初代惣右衛門はこの村に生まれて、十八歳の時から親の名跡《みょうせき》を継ぎ、岩石の間をもいとわず百姓の仕事を励んだ。本家は代々の年寄役でもあったので、若輩《じゃくはい》ながらにその役をも勤めた。旅人相手の街道に目をつけて、旅籠屋《はたごや》の新築を思い立ったのは、この初代が二十八、九のころにあたる。そのころの馬籠は、一|分《ぶ》か二分の金を借りるにも、隣宿の妻籠《つまご》か美濃の中津川まで出なければならなかった。師走《しわす》も押し詰まったころになると、中津川の備前屋《びぜんや》の親仁《おやじ》が十日あまりも馬籠へ来て泊まっていて、町中へ小貸《こが》しなどした。その金でようやく村のものが年を越したくらいの土地|柄《がら》であった。
四人の子供を控えた初代惣右衛門夫婦の小歴史は、馬籠のような困窮な村にあって激しい生活苦とたたかった人たちの歴史である。百姓の仕事とする朝草《あさくさ》も、春先青草を見かける時分から九月十月の霜をつかむまで毎朝二度ずつは刈り、昼は人並みに会所の役を勤め、晩は宿泊の旅人を第一にして、その間に少しずつの米商いもした。かみさんはまたかみさんで、内職に豆腐屋をして、三、四人の幼いものを控えながら夜通し石臼《いしうす》をひいた。新宅の旅籠屋《はたごや》もできあがるころは、普請《ふしん》のおりに出た木の片《きれ》を燈《とぼ》して、それを油火《あぶらび》に替え、夜番の行燈《あんどん》を軒先へかかげるにも毎朝夜明け前に下掃除《したそうじ》を済まし、同じ布で戸障子《としょうじ》の敷居などを拭《ふ》いたのも、そのかみさんだ。貧しさにいる夫婦二人のものは、自分の子供らを路頭に立たせまいとの願いから、夜一夜ろくろく安気《あんき》に眠ったこともなかったほど働いた。
そのころ、本家の梅屋では隣村湯舟沢から来る人足たちの宿をしていた。その縁故から、初代夫婦はなじみの人足に頼んで、春先の食米《くいまい》三斗ずつ内証で借りうけ、秋米《あきまい》で四斗ずつ返すことにしていた。これは田地を仕付けるにも、旅籠屋《はたごや》片手間では芝草の用意もなりかねるところから、麦で少しずつ刈り造ることに生活の方法を改めたからで。
初代惣右衛門はこんなところから出発した。旅籠屋の営業と、そして骨の折れる耕作と。もともと馬籠にはほかによい旅籠屋もなかったから、新宅と言って泊まる旅人も多く、追い追いと常得意の客もつき、小女《こおんな》まで置き、その奉公人の給金も三分がものは翌年は一両に増してやれるほどになった。飯米《はんまい》一升買いの時代のあとには、一俵買いの時代も来、後には馬で中津川から呼ぶ時代も来た。新宅桝田屋の主人はもうただの百姓でもなかった。旅籠屋営業のほかに少しずつ商売などもする町人であった。
二代目惣右衛門はこの夫婦の末子として生まれた。親から仕来《しきた》った百姓は百姓として、惣領《そうりょう》にはまだ家の仕事を継ぐ特権もある。次男三男からはそれも望めなかった。十三、四のころから草刈り奉公に出て、末は雲助《くもすけ》にでもなるか。末子と生まれたものが成人しても、馬追いか駕籠《かご》かきにきまったものとされたほどの時代である。そういう中で、二代目惣右衛門は親のそばにいて、物心づくころから草刈り奉公にも出されなかったというだけでも、親惣右衛門を徳とした。この二代目がまた、親の仕事を幾倍かにひろげた。
人も知るように、当時の諸大名が農民から収めた年貢米《ねんぐまい》の多くは、大坂の方に輸送されて、金銀に替えられた。大坂は米取引の一大市場であった。次第に商法も手広くやるころの二代目惣右衛門は、大坂の米相場にも無関心ではなかった人である。彼はまた、優に千両の無尽にも応じたが、それほど実力を積み蓄えた分限者《ぶげんしゃ》は木曾谷中にも彼のほかにないと言
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