住みながらも、一方には伊那の谷の方を望み、一方には親しい友だちのいる中津川から、落合、附智《つけち》、久々里《くくり》、大井、岩村、苗木《なえぎ》なぞの美濃の方にまで、あそこにも、ここにもと、その燈火を数えて見ることができた。
当時の民間にある庄屋《しょうや》たちは、次第にその位置を自覚し始めた。さしあたり半蔵としては、父|吉左衛門《きちざえもん》から青山の家を譲られる日のことを考えて見て、その心じたくをする必要があった。吉左衛門と、隣家の金兵衛《きんべえ》とが、二人《ふたり》ともそろって木曾福島の役所あてに退役願いを申し出たのも、その年、万延《まんえん》元年の夏のはじめであったからで。
長いこと地方自治の一単位とも言うべき村方の世話から、交通輸送の要路にあたる街道一切の面倒まで見て、本陣問屋庄屋の三役を兼ねた吉左衛門と、年寄役の金兵衛とが二人ともようやく隠退を思うころは、吉左衛門はすでに六十二歳、金兵衛は六十四歳に達していた。もっとも、父の退役願いがすぐにきき届けられるか、どうかは、半蔵にもわからなかったが。
時には、半蔵は村の見回りに行って、そこいらを出歩く父や金兵衛にあう。吉左衛門ももう杖《つえ》なぞを手にして、新たに養子を迎えたお喜佐《きさ》(半蔵の異母妹)の新宅を見回りに行くような人だ。金兵衛は、と見ると、この隣人は袂《たもと》に珠数《じゅず》を入れ、かつては半蔵の教え子でもあった亡《な》き鶴松《つるまつ》のことを忘れかねるというふうで、位牌所《いはいじょ》を建立《こんりゅう》するとか、木魚《もくぎょ》を寄付するとかに、何かにつけて村の寺道の方へ足を運ぼうとするような人だ。問屋の九太夫にもあう。
「九太夫さんも年を取ったなあ。」
そう想《おも》って見ると、金兵衛の家には美濃の大井から迎えた伊之助《いのすけ》という養子ができ、九太夫の家にはすでに九郎兵衛《くろべえ》という後継《あとつ》ぎがある。
半蔵は家に戻《もど》ってからも、よく周囲《あたり》を見回した。妻をも見て言った。
「お民、ことしか来年のうちには、お前も本陣の姉《あね》さまだぜ。」
「わかっていますよ。」
「お前にこの家がやれるかい。」
「そりゃ、わたしだって、やれないことはないと思いますよ。」
先代の隠居半六から四十二歳で家督を譲られた父吉左衛門に比べると、半蔵の方はまだ十二年も若い。それでももう彼のそばには、お民のふところへ子供らしい手をさし入れて、乳房《ちぶさ》を探ろうとする宗太がいる。朴《ほお》の葉に包んでお民の与えた熱い塩結飯《しおむすび》をうまそうに頬張《ほおば》るような年ごろのお粂《くめ》がいる。
半蔵は思い出したように、
「ごらん、吾家《うち》の阿爺《おやじ》はことしで勤続二十一年だ、見習いとして働いた年を入れると、実際は三十七、八年にもなるだろう。あれで祖父《おじい》さんもなかなか頑張《がんば》っていて、本陣庄屋の仕事を阿爺《おやじ》に任せていいとは容易に言わなかった。それほど大事を取る必要もあるんだね。おれなぞは、お前、十七の歳《とし》から見習いだぜ。しかし、おれはお前の兄さん(寿平次)のように事務の執れる人間じゃない。お大名を泊めた時の人数から、旅籠賃《はたごちん》がいくらで、燭台《しょくだい》が何本と事細かに書き留めて置くような、そういうことに適した人間じゃない――おれは、こんなばかな男だ。」
「どうしてそんなことを言うんでしょう。」
「だからさ。今からそれをお前に断わって置く。お前の兄さんもおもしろいことを言ったよ。庄屋としては民意を代表するし、本陣問屋としては諸街道の交通事業に参加すると想《おも》って見たまえ、とさ。しかし、おれも庄屋の子だ。平田先生の門人の一人《ひとり》だ。まあ、おれはおれで、やれるところまでやって見る。」
「半蔵さま、福島からお差紙《さしがみ》(呼び出し状)よなし。ここはどうしても、お前さまに出ていただかんけりゃならん。」
村方のものがそんなことを言って、半蔵のところへやって来た。
村民同志の草山の争いだ。いたるところに森林を見る山間の地勢で、草刈る場所も少ない土地を争うところから起こって来る境界のごたごただ。草山口論ということを約《つづ》めて、「山論《さんろん》」という言葉で通って来たほど、これまでとてもその紛擾《ふんじょう》は木曾山に絶えなかった。
銭相場引き上げ、小判買い、横浜交易なぞの声につれて、一方には財界変動の機会に乗じ全盛を謳《うた》わるる成金もあると同時に、細民の苦しむこともおびただしい。米も高い。両に四斗五升もした。大豆《だいず》一|駄《だ》二両三分、酒一升二百三十二文、豆腐一丁四十二文もした。諸色《しょしき》がこのとおりだ。世間一統動揺して来ている中で、村民の心が
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