めんください。」
と子供に言って見せる声がして、部屋《へや》の敷居をまたごうとする幼いものを助けながら、そこへはいって来たのは半蔵の妻だ。娘のお粂《くめ》は五つになるが、下に宗太《そうた》という弟ができてから、にわかに姉さんらしい顔つきで、お民に連れられながら、客のところへ茶を運んで来た。一心に客の方をめがけて、茶をこぼすまいとしながら歩いて来るその様子も子供らしい。
「まあ、香蔵さん、見てやってください。」とおまんは言った。「お粂があなたのところへお茶を持ってまいりましたよ。」
「この子が自分で持って行くと言って、きかないんですもの。」とお民も笑った。
半蔵の家では子供まで来て、雨に逗留する客をもてなした。
とうとう香蔵は二晩も馬籠に泊まった。東|美濃《みの》から伊那《いな》の谷へかけての平田門人らとも互いに連絡を取ること、場合によっては京都、名古屋にある同志のものを応援することを半蔵に約して置いて、三日目には香蔵は馬籠の本陣を辞した。
友だちが帰って行ったあとになって見ると、半蔵は一層わびしい雨の日を山の上に送った。四日目になっても雨は降り続き、風もすこし吹いて、橋の損所や舞台の屋根を修繕するために村じゅう一軒に一人《ひとり》ずつは出た。雨間《あまま》というものがすこしもなく、雲行きは悪く、荒れ気味で安心がならなかった。村には長雨のために、壁がいたんだり、土の落ちたりした土蔵もある。五日目も雨、その日になると、崖《がけ》になった塩沢あたりの道がぬける。香蔵が帰って行った中津川の方の大橋付近では三軒の人家が流失するという騒ぎだ。日に日に木曾川の水は増し、橋の通行もない。街道は往来止めだ。
ようやく五月の十七日ごろになって、上り下りの旅人が動き出した。尾張藩の勘定奉行《かんじょうぶぎょう》、普請役|御目付《おめつけ》、錦織《にしこうり》の奉行、いずれも江戸城本丸の建築用材を見分《けんぶん》のためとあって、この森林地帯へ入り込んで来る。美濃地方が風雨のために延引となっていた長崎御目付の通行がそのあとに続く。
「黒船騒ぎも、もうたくさんだ。」
そう思っている半蔵は、また木曾人足百人、伊那の助郷《すけごう》二百人を用意するほどの長崎御目付の通行を見せつけられた。遠く長崎の港の方には、新たにドイツの船がはいって来て、先着のヨーロッパ諸国と同じような通商貿易の許しを求めるために港内に碇泊《ていはく》しているとのうわさもある。
三
七月を迎えるころには、寛斎は中津川の家を養子に譲り、住み慣れた美濃の盆地も見捨て、かねて老後の隠棲《いんせい》の地と定めて置いた信州伊那の谷の方へ移って行った。馬籠にはさびしく旧師を見送る半蔵が残った。
「いよいよ先生ともお別れか。」
と半蔵は考えて、本陣の店座敷の戸に倚《よ》りながら、寛斎が引き移って行った谷の方へ思いを馳《は》せた。隣宿|妻籠《つまご》から伊那への通路にあたる清内路《せいないじ》には、平田門人として半蔵から見れば先輩の原|信好《のぶよし》がある。御坂峠《みさかとうげ》、風越峠《かざこしとうげ》なぞの恵那《えな》山脈一帯の地勢を隔てた伊那の谷の方には、飯田《いいだ》にも、大川原にも、山吹《やまぶき》にも、座光寺にも平田同門の熱心な先輩を数えることができる。その中には、篤胤大人|畢生《ひっせい》の大著でまだ世に出なかった『古史伝』三十一巻の上木《じょうぼく》を思い立つ座光寺の北原稲雄《きたはらいなお》のような人がある。古学研究の筵《むしろ》を開いて、先師遺著の輪講を思い立つ山吹の片桐春一《かたぎりしゅんいち》のような人がある。年々|寒露《かんろ》の節に入る日を会日と定め、金二分とか、金半分とかの会費を持ち寄って、地方にいて書籍を購読するための書籍講というものを思い立つものもある。
半蔵の周囲には、驚くばかり急激な勢いで、平田派の学問が伊那地方の人たちの間に伝播《でんぱ》し初めた。飯田の在の伴野《ともの》という村には、五十歳を迎えてから先師没後の門人に加わり、婦人ながらに勤王の運動に身を投じようとする松尾多勢子《まつおたせこ》のような人も出て来た。おまけに、江戸には篤胤大人の祖述者をもって任ずる平田|鉄胤《かねたね》のようなよい相続者があって、地方にある門人らを指導することを忘れていなかった。一切の入門者がみな篤胤没後の門人として取り扱われた。決して鉄胤の門人とは見なされなかった。半蔵にして見ると、彼はこの伊那地方の人たちを東美濃の同志に結びつける中央の位置に自分を見いだしたのである。賀茂真淵《かものまぶち》から本居宣長、本居宣長から平田篤胤と、諸大人の承《う》け継ぎ承け継ぎして来たものを消えない学問の燈火《ともしび》にたとえるなら、彼は木曾のような深い山の中に
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