そう静かにしていられるはずもなかった。山論までが露骨になって来た。
しかし半蔵にとって、大《おお》げさに言えば血で血を洗うような、こうした百姓同志の争いほど彼の心に深い悲しみを覚えさせるものもなかった。福島役所への訴訟沙汰《そしょうざた》にまでなった山論――訴えた方は隣村湯舟沢の村民、訴えられた方は馬籠宿内の一部落にあたる峠村の百姓仲間である。山論がけんかになって、峠村のものが鎌《かま》十五|挺《ちょう》ほど奪い取られたのは過ぐる年の夏のことで、いったんは馬籠の宿役人が仲裁に入り、示談になったはずの一年越しの事件だ。この争いは去年の二百二十日から九月の二十日ごろまで、およそ二か月にもわたった。そのおりには隣宿妻籠|脇本陣《わきほんじん》の扇屋得右衛門《おうぎやとくえもん》から、山口村の組頭《くみがしら》まで立ち合いに来て、草山の境界を見分するために一同弁当持参で山登りをしたほどであった。ところが、湯舟沢村のものから不服が出て、その結果は福島の役所にまで持ち出されるほど紛《もつ》れたのである。二人の百姓総代は峠村からも馬籠の下町からも福島に呼び出された。両人のものが役所に出頭して見ると、直ちに入牢《にゅうろう》を仰せ付けられて、八沢《やさわ》送りとなった。福島からは別に差紙《さしがみ》が来て、年寄役付き添いの上、馬籠の庄屋に出頭せよとある。今は、半蔵も躊躇《ちゅうちょ》すべき時でない。
「お民、おれはお父《とっ》さんの名代《みょうだい》に、福島まで行って来る。」
と妻に言って、彼は役所に出頭する時の袴《はかま》の用意なぞをさせた。自分でも着物を改めて、堅く帯をしめにかかった。
「どうも人気《にんき》が穏やかでない。」
父、吉左衛門はそれを半蔵に言って、福島行きのしたくのできるのを待った。
この父は自分の退役も近づいたという顔つきで、本陣の囲炉裏ばたに続いた寛《くつろ》ぎの間《ま》の方へ行って、その部屋《へや》の用箪笥《ようだんす》から馬籠湯舟沢両村の古い絵図なぞを取り出して来た。
「半蔵、これも一つの参考だ。」
と言って子の前に置いた。
「双方入り合いの草刈り場所というものは、むずかしいよ。山論、山論で、そりゃ今までだってもずいぶんごたごたしたが、大抵は示談で済んで来たものだ。」
とまた吉左衛門は軽く言って、早く不幸な入牢者を救えという意味を通わせた。
湯舟沢の方の百姓は、組頭《くみがしら》とも、都合八人のものが福島の役所に呼び出された。馬籠では、年寄役の儀助、同役|与次衛門《よじえもん》、それに峠の組頭平助がすでに福島へ向けて立って行った。なお、年寄役金兵衛の名代《みょうだい》として、隣家の養子伊之助も半蔵のあとから出かけることになっている。草山口論も今は公《おおやけ》の場処に出て争おうとする御用の山論一条だ。
これらの年寄役は互いに代わり合って、半蔵の付き添いとして行くことになったのだ。
「おれも退役願いを出したくらいだから、今度は顔を出すまいよ。」
と父が言葉を添えるころには、峠の組頭平助が福島から引き返して、半蔵を迎えに来た。半蔵は平助の付き添いに力を得て、脚絆《きゃはん》に草鞋《わらじ》ばき尻端折《しりはしょ》りのかいがいしい姿になった。
諸国には当時の厳禁なる百姓|一揆《いっき》も起こりつつあった。しかし半蔵は、村の長老たちが考えるようにそれを単なる農民の謀反《むほん》とは見なせなかった。百姓一揆の処罰と言えば、軽いものは笞《むち》、入墨《いれずみ》、追い払い、重いものは永牢《えいろう》、打ち首のような厳刑はありながら、進んでその苦痛を受けようとするほどの要求から動く百姓の誠実と、その犠牲的な精神とは、他の社会に見られないものである。当時の急務は、下民百姓を教えることではなくて、あべこべに下民百姓から教えられることであった。
「百姓には言挙《ことあ》げということもさらにない。今こそ草山の争いぐらいでこんな内輪げんかをしているが、もっと百姓の目をさます時が来る。」
そう半蔵は考えて、庄屋としての父の名代《みょうだい》を勤めるために、福島の役所をさして出かけて行くことにした。
家を離れてから、彼はそこにいない人たちに呼びかけるように、ひとり言って見た。
「同志打ちはよせ。今は、そんな時世じゃないぞ。」
四
十三日の後には、福島へ呼び出されたものも用済みになり、湯舟沢峠両村の百姓の間には和解が成り立った。
八沢の牢舍《ろうや》を出たもの、証人として福島の城下に滞在したもの、いずれも思い思いに帰村を急ぎつつあった。十四日目には、半蔵は隣家の伊之助と連れだって、峠の組頭平助とも一緒に、暑い木曾路を西に帰って来る人であった。
福島から須原《すはら》泊まりで、山論和解の報告をも
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