出したと言いますよ。そうです、軽く見積もっても九十万両ですとさ。驚くじゃありませんか。まさか幕府の役人だって、異人の言うなりになってるわけでもありますまいがね、したくも何もなしに、いきなり港を開かせられてしまって、その結果はと言うと非常な物価騰貴です。そりゃ一部の人たちは横浜開港でもうけたかもしれませんが、一般の人民はこんなに生活に苦しむようになって来ましたぜ。」
 近づいて来る六月二日、その横浜開港一周年の記念日をむしろ屈辱の記念日として考えるものもあるような、さかんな排外熱は全国に巻き起こって来た。眼《ま》のあたりに多くのものの苦しみを見る半蔵らは、一概にそれを偏狭|頑固《がんこ》なものの声とは考えられなかった。


「宮川先生のことは、もう何も言いますまい。」と半蔵が言い出した。「わたしたちの衷情としては、今までどおりの簡素清貧に甘んじていていただきたかったけれど。」
「国学者には君、国学者の立場もあろうじゃありませんか。それを捨てて、ただもうけさえすればよいというものでもないでしょう。」と言うのは香蔵だ。
「いったい、先生が横浜なぞへ出かけられる前に、相談してくださるとよかった。こんなにわたしたちを避けなくてもよさそうなものです。」
「出稼《でかせ》ぎの問題には触れてくれるなと言うんでしょう。」
 にわかな雨で、二人《ふたり》の話は途切れた。半蔵は店座敷の雨戸を繰って、それを一枚ほど閉《し》めずに置き、しばらく友だちと二人で表庭にふりそそぐ強い雨をながめていた。そのうちに雨は座敷へ吹き込んで来る。しまいには雨戸もあけて置かれないようになった。
「お民。」
 と半蔵は妻を呼んだ。燈火《あかり》なしには話も見えないほど座敷の内は暗かった。お民ももはや二十四で、二人子持ちの若い母だ。奥から行燈《あんどん》を運んで来る彼女の後ろには、座敷の入り口までついて来て客の方をのぞく幼いものもある。
 時ならぬ行燈のかげで、半蔵と香蔵の二人は風雨の音をききながら旧師のことを語り合った。話せば話すほど二人はいろいろな心持ちを引き出されて行った。半蔵にしても香蔵にしても、はじめて古学というものに目をあけてもらった寛斎の温情を忘れずにいる。旧師も老いたとは考えても、その態度を責めるような心は二人とも持たなかった。飯田《いいだ》の在への隠退が旧師の晩年のためとあるなら、その人の幸福を乱したくないと言うのが半蔵だ。親戚《しんせき》としての関係はとにかく、旧師から離れて行こうと言い出すのが香蔵だ。
 国学者としての大きな先輩、本居宣長《もとおりのりなが》ののこした仕事はこの半蔵らに一層光って見えるようになって来た。なんと言っても言葉の鍵《かぎ》を握ったことはあの大人《うし》の強味で、それが三十五年にわたる古事記の研究ともなり、健全な国民性を古代に発見する端緒ともなった。儒教という形であらわれて来ている北方シナの道徳、禅宗や道教の形であらわれて来ている南方シナの宗教――それらの異国の借り物をかなぐり捨て、一切の「漢《から》ごころ」をかなぐり捨てて、言挙《ことあ》げということもさらになかった神ながらのいにしえの代に帰れと教えたのが大人《うし》だ。大人から見ると、何の道かの道ということは異国の沙汰《さた》で、いわゆる仁義礼譲孝|悌《てい》忠信などというやかましい名をくさぐさ作り設けて、きびしく人間を縛りつけてしまった人たちのことを、もろこし方では聖人と呼んでいる。それを笑うために出て来た人があの大人だ。大人が古代の探求から見つけて来たものは、「直毘《なおび》の霊《みたま》」の精神で、その言うところを約《つづ》めて見ると、「自然《おのずから》に帰れ」と教えたことになる。より明るい世界への啓示も、古代復帰の夢想も、中世の否定も、人間の解放も、または大人のあの恋愛観も、物のあわれの説も、すべてそこから出発している。伊勢《いせ》の国、飯高郡《いいだかごおり》の民として、天明《てんめい》寛政《かんせい》の年代にこんな人が生きていたということすら、半蔵らの心には一つの驚きである。早く夜明けを告げに生まれて来たような大人は、暗いこの世をあとから歩いて来るものの探るに任せて置いて、新しい世紀のやがてめぐって来る享和《きょうわ》元年の秋ごろにはすでに過去の人であった。半蔵らに言わせると、あの鈴《すず》の屋《や》の翁《おきな》こそ、「近《ちか》つ代《よ》」の人の父とも呼ばるべき人であった。
 香蔵は半蔵に言った。
「今になって、想《おも》い当たる。宮川先生も君、あれで中津川あたりじゃ国学者の牛耳《ぎゅうじ》を執ると言われて来た人ですがね、年をとればとるほど漢学の方へ戻《もど》って行かれるような気がする。先生には、まだまだ『漢《から》ごころ』のぬけ切らないところがあるんですね
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