。」
「香蔵さん、そう君に言われると、わたしなぞはなんと言っていいかわからない。四書五経から習い初めたものに、なかなか儒教の殻《から》はとれませんよ。」


 強雨はやまないばかりか、しきりに雲が騒いで、夕方まで休みなしに吹き通すような強風も出て来た。名古屋から福島行きの客でやむを得ず半蔵の家に一宿させてくれと言って来た人さえもある。
 香蔵もその晩は中津川の方へは帰れなかった。翌朝になって見ると、風は静まったが、天気は容易に回復しなかった。思いのほかの大荒れで、奥筋《おくすじ》の道や橋は損じ、福島の毛付《けづ》け(馬市)も日延べになったとの通知があるくらいだ。
 ちょうど半蔵の父、吉左衛門《きちざえもん》は尾張藩《おわりはん》から御勝手《おかって》仕法立ての件を頼まれて、名古屋出張中の留守の時であった。半蔵は家の囲炉裏《いろり》ばたに香蔵を残して置いて、ちょっと会所の見回りに行って来たが、街道には旅人の通行もなかった。そこへ下男の佐吉も蓑《みの》と笠《かさ》とで田圃《たんぼ》の見回りから帰って来て、中津川の大橋が流れ失《う》せたとのうわさを伝えた。
「香蔵さん、大橋が落ちたと言いますぜ。もうすこし見合わせていたらどうです。」
「この雨にどうなりましょう。」と半蔵が継母のおまんも囲炉裏《いろり》ばたへ来て言った。「いずれ中津川からお迎えの人も見えましょうに、それまで見合わせていらっしゃるがいい。まあ、そうなさい。」
 雨のために、やむなく逗留《とうりゅう》する友だちを慰めようとして、やがて半蔵は囲炉裏ばたから奥の部屋《へや》の方へ香蔵を誘った。北の坪庭に向いたところまで行って、雨戸をすこし繰って見せると、そこに本陣の上段の間がある。白地に黒く雲形を織り出した高麗縁《こうらいべり》の畳の上には、雨の日の薄暗い光線がさし入っている。木曾路を通る諸大名が客間にあててあるのもそこだ。半蔵が横須賀の旅以来、過ぐる三年間の意味ある通行を数えて見ると、彦根《ひこね》よりする井伊掃部頭《いいかもんのかみ》、江戸より老中|間部下総守《まなべしもうさのかみ》、林大学頭《はやしだいがくのかみ》、監察|岩瀬肥後守《いわせひごのかみ》、等、等――それらのすでに横死したりまたは現存する幕府の人物で、あるいは大老就職のため江戸の任地へ赴《おもむ》こうとし、あるいは神奈川条約上奏のため京都へ急ごうとして、その客間に足をとどめて行ったことが、ありありとそこにたどられる。半蔵はそんな隠れたところにある部屋《へや》を友だちにのぞかせて、目まぐるしい「時」の歩みをちょっと振り返って見る気になった。
 その時、半蔵は唐紙《からかみ》のそばに立っていた。わざと友だちが上段の間の床に注意するのを待っていた。相州三浦《そうしゅうみうら》、横須賀在、公郷村《くごうむら》の方に住む山上七郎左衛門《やまがみしちろうざえもん》から旅の記念にと贈られた光琳《こうりん》の軸がその暗い壁のところに隠れていたのだ。
「香蔵さん、これがわたしの横須賀|土産《みやげ》ですよ。」
「そう言えば、君の話にはよく横須賀が出る。これを贈ったかたがその御本家なんですね。」
「妻籠《つまご》の本陣じゃ無銘の刀をもらう、わたしの家へはこの掛け物をもらって来ました。まったく、あの旅は忘れられない。あれから吾家《うち》へ帰って来た日は、わたしはもう別の人でしたよ――まあ、自分のつもりじゃ、全く新規な生活を始めましたよ。」
 半日でも多く友だちを引き留めたくている半蔵には、その日の雨はやらずの雨と言ってよかった。彼はその足で、継母や妻の仕事部屋となっている仲の間のわきの廊下を通りぬけて、もう一度店座敷の方に友だちの席をつくり直した。
「どれ、香蔵さんに一つわたしのまずい歌をお目にかけますか。」
 と言って半蔵が友だちの前に取り出したのは、時事を詠じた歌の草稿だ。まだ若々しい筆で書いて、人にも見せずにしまって置いてあるものだ。
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あめりかのどるを御国《みくに》のしろかねにひとしき品とさだめしや誰《たれ》
しろかねにかけておよばぬどるらるをひとしと思ひし人は誰ぞも
国つ物たかくうるともそのしろのいとやすかるを思ひはからで
百八十《ももやそ》の物のことごとたかくうりてわれを富ますとおもひけるかな
土のごと山と掘りくるどるらるに御国《みくに》のたからかへまく惜しも
どるらるにかふるも悲し神国《かみぐに》の人のいとなみ造れるものを
どるらるの品のさだめは大八島《おおやしま》国中《くぬち》あまねく問ふべかりしを
しろかねにいたくおとれるどるらるを知りてさておく世こそつたなき
国つ物足らずなりなばどるらるは山とつむとも何にかはせむ
[#ここで字下げ終わり]
 これらの歌に「どる」とか、「どるらる」とかある
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