は、この地方の動揺の中だ。
旅人を親切にもてなすことは、古い街道筋の住民が一朝一夕に養い得た気風でもない。椎《しい》の葉に飯《いい》を盛ると言った昔の人の旅情は彼らの忘れ得ぬ歌であり、路傍に立つ古い道祖神《どうそじん》は子供の時分から彼らに旅人愛護の精神をささやいている。いたるところに山嶽《さんがく》は重なり合い、河川はあふれやすい木曾のような土地に住むものは、ことにその心が深い。当時における旅行の困難を最もよく知るものは、そういう彼ら自身なのだ。まして半蔵にして見れば、以前に師匠と頼んだ人、平田入門の紹介までしてくれた人が神奈川から百里の道を踏んで、昼でも暗いような木曾の森林の間を遠く疲れて帰って来ようという旅だ。
半蔵は旧師を待ち受ける心で、毎日のように街道へ出て見た。彼も隣宿|妻籠《つまご》本陣の寿平次《じゅへいじ》と一緒に、江戸から横須賀《よこすか》へかけての旅を終わって帰って来てから、もう足掛け三年になる。過ぐる年の大火のあとをうけて馬籠の宿《しゅく》もちょうど復興の最中であった。幸いに彼の家や隣家の伏見屋は類焼をまぬかれたが、町の向こう側はすっかり焼けて、まっ先に普請《ふしん》のできた問屋《といや》九太夫《くだゆう》の家も目に新しい。
旧師の横浜|出稼《でかせ》ぎについては、これまでとても弟子たちの間に問題とされて来たことだ。どうかして晩節を全うするように、とは年老いた師匠のために半蔵らの願いとするところで、最初横浜行きのうわさを耳にした時に、弟子たちの間には寄り寄りその話が出た。わざわざ断わって行く必要もなかったと師匠に言われれば、それまでで、往《い》きにその沙汰《さた》がなかったにしても、帰りにはなんとか話があろうと語り合っていた。すくなくも半蔵の心には、あの旧師が自分の家には立ち寄ってくれてせめて弟子だけにはいろいろな打ち明け話があるものと思っていた。
四月の二十二日には、寛斎も例の馬荷一|駄《だ》に宰領の付き添いで、片側に新しい家の並んだ馬籠の坂道を峠の方から下って来た。寛斎は伏見屋の門口に馬を停《と》め、懇意な金兵衛方に亡《な》くなった鶴松《つるまつ》の悔やみを言い入れ、今度横浜を引き上げるについては二千四百両からの金を預かって来たこと、万屋安兵衛らの帰国はたぶん六月になろうということ、生糸売り上げも多分の利得のあること、開港場での小判の相場は三両二朱ぐらいには商いのできること、そんな話を金兵衛のところに残して置いて、せっかく待ち受けている半蔵の家へは立ち寄らずに、そこそこに中津川の方へ通り過ぎて行った。
このことは後になって隣家から知れて来た。それを知った時の半蔵の手持ちぶさたもなかった。旧師を信ずる心の深いだけ、彼の失望も深かった。
二
「どうも小判買いの入り込んで来るには驚きますね。今もわたしは馬籠へ来る途中で、落合《おちあい》でもそのうわさを聞いて来ましたよ。」
こんな話をもって、中津川の香蔵が馬籠本陣を訪《たず》ねるために、落合から十曲峠《じっきょくとうげ》の山道を登って来た。
香蔵は、まだ家督相続もせずにいる半蔵と違い、すでに中津川の方の新しい問屋の主人である。十何年も前に弟子として、義理ある兄の寛斎に就《つ》いたころから見ると、彼も今は男のさかりだ。三人の友だちの中でも、景蔵は年長《としうえ》で、香蔵はそれに次ぎ、半蔵が一番若かった。その半蔵がもはや三十にもなる。
寛斎も今は成金《なりきん》だと戯れて見せるような友だちを前に置いて、半蔵は自分の居間としている本陣の店座敷で話した。
銭相場引き上げに続いて急激な諸物価騰貴をひき起こした横浜貿易の取りざたほど半蔵らの心をいらいらさせるものもない。当時、国内に流通する小判、一分判《いちぶばん》などの異常に良質なことは、米国領事ハリスですら幕府に注意したくらいで、それらの古い金貨を輸出するものは法外な利を得た。幕府で新小判を鋳造《ちゅうぞう》し、その品質を落としたのは、外国貨幣と釣合《つりあい》を取るための応急手段であったが、それがかえって財界混乱の結果を招いたとも言える。そういう幕府には市場に流通する一切の古い金貨を蒐集《しゅうしゅう》して、それを改鋳するだけの能力も信用もなかったからで。新旧小判は同時に市場に行なわれるような日がやって来た。目先の利に走る内地商人と、この機会をとらえずには置かない外国商人とがしきりにその間に跳梁《ちょうりょう》し始めた。純粋な小判はどしどし海の外へ出て行って、そのかわりに輸入せらるるものは多少の米弗《ベイドル》銀貨はあるとしても、多くは悪質な洋銀であると言われる。
「半蔵さん、君はあの小判買いの声をどう思います。」と香蔵は言った。「今までに君、九十万両ぐらいの小判は外国へ流れ
前へ
次へ
全119ページ中68ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング