をまぬかれた話もある。武州|川越《かわごえ》の商人は駕籠《かご》で夜道を急ごうとして、江戸へ出る途中で駕籠《かご》かきに襲われた話もある。五十両からの金を携帯する客となると、駕籠かきにはその重さでわかるという。こんな不便な時代に、寛斎は二千四百両からの金を預かって行かねばならない。貧しい彼はそれほどの金をかつて見たこともなかったくらいだ。
 寛斎は牡丹屋の二階にいた。その前へ来てすわって、手さげのついた煙草盆《たばこぼん》から一服吸いつけたのが安兵衛だ。
「先生に引き受けていただいて、わたしも安心しました。この役を引き受けていただきたいばかりに、わざわざ先生を神奈川へお誘いして来たようなものですよ。」
 と安兵衛が白状した。
 しかし、これは安兵衛に言われるまでもなかった。もとより寛斎も承知の上で来たことだ。
 寛斎は前途百里の思いに胸のふさがる心地《ここち》でたちあがった。迫り来る老年はもはやこの人の半身に上っていた。右の耳にはほとんど聴《き》く力がなく、右の目の視《み》る力も左のほどにはきかなかった。彼はその衰えたからだを起こして、最後の「隠れ家《が》」にたどり着くための冒険に当たろうとした。その時、安兵衛は一人の宰領《さいりょう》を彼のところへ連れて来た。
「先生、この人が一緒に行ってくれます。」
 見ると、荷物を護《まも》って行くには屈強な男だ。千両箱の荷造りには嘉吉も来て手伝った。
 四月十日ごろには、寛斎は朝早くしたくをはじめ、旅の落《おと》し差《ざし》に身を堅めて、七か月のわびしい旅籠屋住居《はたごやずまい》に別れて行こうとする人であった。牡丹屋の亭主の計らいで、別れの盃《さかずき》なぞがそこへ運ばれた。安兵衛は寛斎の前にすわって、まず自分で一口飲んだ上で、その土器《かわらけ》を寛斎の方へ差した。この水盃は無量の思いでかわされた。
「さあ、退《ど》いた。退《ど》いた。」
 という声が起こった。廊下に立つ女中なぞの間を分けて、三つの荷が二階から梯子段《はしごだん》の下へ運ばれた。その荷造りした箱の一つ一つは、嘉吉と宿の男とが二人がかりでようやく持ち上がるほどの重さがあった。
「オヤ、もうお立ちでございますか。江戸はいずれ両国のお泊まりでございましょう。あの十一屋の隠居にも、どうかよろしくおっしゃってください。」
 と亭主も寛斎のところへ挨拶《あいさつ》に来た。
 馬荷一|駄《だ》。それに寛斎と宰領とが付き添って、牡丹屋の門口を離れた。安兵衛や嘉吉はせめて宿《しゅく》はずれまで見送りたいと言って、一緒に滝の橋を渡り、オランダ領事館の国旗の出ている長延寺の前を通って、神奈川御台場の先までついて来た。
 その時になって見ると、郷里の方にいる旧《ふる》い弟子《でし》たちの思惑《おもわく》もしきりに寛斎の心にかかって来た。彼が一歩《ひとあし》踏み出したところは、往来《ゆきき》するものの多い東海道だ。彼は老鶯《ろうおう》の世を忍ぶ風情《ふぜい》で、とぼとぼとした荷馬の※[#「くさかんむり/稾」、197−8]沓《わらぐつ》の音を聞きながら、遠く板橋回りで木曾街道に向かって行った。
[#改頁]

     第五章

       一

 宮川寛斎《みやがわかんさい》が万屋《よろずや》の主人と手代とを神奈川《かながわ》に残して置いて帰国の途に上ったことは、早く美濃《みの》の方へ知れた。中津川も狭い土地だから、それがすぐ弟子《でし》仲間の香蔵や景蔵の耳に入り、半蔵はまた三里ほど離れた木曾《きそ》の馬籠《まごめ》の方で、旧《ふる》い師匠が板橋方面から木曾街道を帰って来ることを知った。
 横浜開港の影響は諸国の街道筋にまであらわれて来るころだ。半蔵は馬籠の本陣にいて、すでに幾たびか銭相場引き上げの声を聞き、さらにまた小判《こばん》買いの声を聞くようになった。古二朱金、保字金なぞの当時に残存した古い金貨の買い占めは地方でも始まった。きのうは馬籠|桝田屋《ますだや》へ江州《ごうしゅう》辺の買い手が来て貯《たくわ》え置きの保金小判を一両につき一両三分までに買い入れて行ったとか、きょうは中津川|大和屋《やまとや》で百枚の保金小判を出して当時通用の新小判二百二十五両を請け取ったとか、そんなうわさが毎日のように半蔵の耳を打った。金一両で二両一分ずつの売買だ。それどころか、二両二分にも、三両にも買い求めるものがあらわれて来た。半蔵が家の隣に住んで昔|気質《かたぎ》で聞こえた伏見屋金兵衛《ふしみやきんべえ》なぞは驚いてしまって、まことに心ならぬ浮世ではある、こんな姿で子孫が繁昌《はんじょう》するならそれこそ大慶の至りだと皮肉を言ったり、この上どうなって行く世の中だろうと不安な語気をもらしたりした。
 半蔵が横浜貿易から帰って来る旧師を心待ちに待ち受けたの
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