越前、土州の諸大名、およそ平生《へいぜい》彼の説に賛成したものは皆江戸城に集まって大老と激しい議論があったが、大老は一切きき入れなかった。安政大獄の序幕はそこから切って落とされた。彼はもとより首唱の罪で、きびしい譴責《けんせき》を受けた。屏《しりぞ》けられ、すわらせられ、断わりなしに人と往来《ゆきき》することすら禁ぜられた。その時の大老の言葉に、岩瀬輩が軽賤《けいせん》の身でありながら柱石たるわれわれをさし置いて、勝手に将軍の継嗣問題なぞを持ち出した。その罪は憎むべき大逆無道にも相当する。それでも極刑に処せられなかったのは、彼も日本国の平安を謀《はか》って、計画することが図に当たり、その尽力の功労は埋《うず》められるものでもないから、非常な寛典を与えられたのであると。
 瑞見に言わせると、今度江戸へ出て来て見ても、水戸の御隠居はじめ大老と意見の合わないものはすべて斥《しりぞ》けられている。諸司諸役ことごとく更替して、大老の家の子郎党ともいうべき人たちで占められている。驚くばかりさかんな大老の権威の前には、幕府内のものは皆|屏息《へいそく》して、足を累《かさ》ねて立つ思いをしているほどだ。岩瀬肥後も今は向島《むこうじま》に蟄居《ちっきょ》して、客にも会わず、号を鴎所《おうしょ》と改めてわずかに好きな書画なぞに日々の憂《う》さを慰めていると聞く。
「幕府のことはもはや語るに足るものがない。」
 と瑞見は嘆息して、その意味から言っても、罪せられた岩瀬肥後を憐《あわれ》んだ。そういう瑞見は、彼自身も思いがけない譴責《けんせき》を受けて、蝦夷《えぞ》移住を命ぜられたのがすこし早かったばかりに、大獄事件の巻き添えを食わなかったというまでである。


 十一屋の隠居は瑞見よりも一歩《ひとあし》先に江戸の方へ帰って行った。瑞見の方は腹具合を悪くして、寛斎の介抱などを受けていたために、神奈川を立つのが二、三日おくれた。
 瑞見は蝦夷《えぞ》から同行して来た供の男を連れて、寛斎にも牡丹屋《ぼたんや》の亭主《ていしゅ》にも別れを告げる時に言った。
「わたしもまた函館《はこだて》の方へ行って、昼寝でもして来ます。」
 こんな言葉を残した。
 客を送り出して見ると、寛斎は一層さびしい日を暮らすようになった。毎晩のように彗星《すいせい》が空にあらわれて怪しい光を放つのは、あれは何かの前兆を語るものであろうなどと、人のうわさにろくなことはない。水戸藩へはまた秘密な勅旨が下った、その使者が幕府の厳重な探偵《たんてい》を避けるため、行脚僧《あんぎゃそう》に姿を変えてこの東海道を通ったという流言なぞも伝わって来る。それを見て来たことのようにおもしろがって言い立てるものもある。攘夷《じょうい》を意味する横浜襲撃が諸浪士によって企てられているとのうわさも絶えなかった。
 暖かい雨は幾たびか通り過ぎた。冬じゅうどこかへ飛び去っていた白い鴉《からす》は、また横浜海岸に近い玉楠《たまぐす》の樹《き》へ帰って来る。旧暦三月の季節も近づいて来た。寛斎は中津川の商人らをしきりに待ち遠しく思った。例の売り込み商を訪《たず》ねるたびに、貿易諸相場は上値《うわね》をたどっているとのことで、この調子で行けば生糸六十五匁か七十匁につき金一両の相場もあらわれようとの話が出る。江州《ごうしゅう》、甲州、あるいは信州|飯田《いいだ》あたりの生糸商人も追い追い入り込んで来る模様があるから、なかなか油断はならないとの話もある。神奈川在留の外国商人――中にもイギリス人のケウスキイなどは横浜の将来を見込んで、率先して木造建築の商館なりと打ち建てたいとの意気込みでいるとの話もある。
「万屋《よろずや》さんも、だいぶごゆっくりでございますね。」
 と牡丹屋の亭主は寛斎を見に裏二階へ上がって来るたびに言った。
 三月三日の朝はめずらしい大雪が来た。寛斎が廊下に出てはながめるのを楽しみにする椎《しい》の枝なぞは、夜から降り積もる雪に圧《お》されて、今にも折れそうなくらいに見える。牡丹屋では亭主の孫にあたるちいさな女の子のために初節句を祝うと言って、その雪の中で、白酒だ豆煎《まめい》りだと女中までが大騒ぎだ。割子《わりご》弁当に重詰め、客|振舞《ぶるまい》の酒肴《さけさかな》は旅に来ている寛斎の膳《ぜん》にまでついた。
 その日一日、寛斎は椎の枝から溶け落ちる重い音を聞き暮らした。やがてその葉が雪にぬれて、かえって一層の輝きを見せるころには、江戸方面からの人のうわさが桜田門《さくらだもん》外の変事を伝えた。
 刺客およそ十七人、脱藩除籍の願書を藩邸に投げ込んで永《なが》の暇《いとま》を告げたというから、浪人ではあるが、それらの水戸の侍たちが井伊大老の登城を待ち受けて、その首級を挙《あ》げた。この変事は人の口から
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