て来たことをも忘れてはならない。来るものも来るものも、皆ペリイのような態度の人ばかりではなかったのだ。アメリカ領事ハリス、その書記ヒュウスケン、イギリスの使節エルジン、その書記オリファント、これらの人たちはいずれも日本を知り、日本の国情というものをも認めた。中には、日本に来た最初の印象は思いがけない文明国の感じであったとさえ言った人もある。すべてこれらの事情は、岩瀬肥後のようにその局に当たった人以外には多く伝わらない。それにつけても、彼にはいろいろな逸話がある。彼が頭脳《あたま》のよかった証拠には、イギリスの使節らが彼の聰明《そうめい》さに驚いたというくらいだ。彼はイギリス人からきいた言葉を心覚えに自分の扇子《せんす》に書きつけて置いて、その次ぎの会見のおりには、かなり正確にその英語を発音したという。イギリスの方では、また彼のすることを見て、日本の扇子は手帳にもなり、風を送る器《うつわ》にもなり、退屈な時の手慰みにもなると言ったという話もある。
もともと水戸の御隠居はそう頑《かたくな》な人ではない。尊王攘夷《そんのうじょうい》という言葉は御隠居自身の筆に成る水戸弘道館の碑文から来ているくらいで、最初のうちこそ御隠居も外国に対しては、なんでも一つ撃《う》ち懲《こら》せという方にばかり志《こころざし》を向けていたらしいが、だんだん岩瀬肥後の説を聞いて大いに悟られるところがあった。御隠居はもとより英明な生まれつきの人だから、今日《こんにち》の外国は古《いにしえ》の夷狄《いてき》ではないという彼の言葉に耳を傾けて、無謀の戦いはいたずらにこの国を害するに過ぎないことを回顧するようになった。その時、御隠居は彼に一つのたとえ話を告げた。ここに一人の美しい娘がある。その娘にしきりに結婚を求めるものがある。再三拒んで容易に許さない。男の心がますます動いて来た時になって、始めて許したら、その二人《ふたり》の愛情はかえって濃《こま》やかで、多情な人のすみやかに受けいれるものには勝《まさ》ろうというのである。実際、あの御隠居が断乎《だんこ》として和親貿易の変更すべきでないことを彼に許した証拠には、こんな娘のたとえを語ったのを見てもわかる。御隠居がすでにこのとおり、外交のやむを得ないことを認めて、他の親藩にも外様《とざま》の大名にも説き勧めるくらいだ。それまで御隠居を動かして鎖攘《さじょう》の説を唱えた二人の幕僚、藤田東湖《ふじたとうこ》、戸田蓬軒《とだほうけん》なども遠見《とおみ》のきく御隠居の見識に服して、自分らの説を改めるようになった。そこへ安政の大地震が来た。一藩の指導者は二人とも圧死を遂げた。御隠居は一時に両《ふた》つの翼を失ったけれども、その老いた精神はますます明るいところへ出て行った。御隠居の長い生涯《しょうがい》のうちでも岩瀬肥後にあったころは特別の時代で、御隠居自身の内部に起こって来た外国というものの考え直しもその時代に行なわれた。
しかし、岩瀬肥後にとっては、彼が一生のつまずきになるほどの一大珍事が出来《しゅったい》した。十三代将軍(徳川|家定《いえさだ》)は生来多病で、物言うことも滞りがちなくらいであった。どうしてもよい世嗣《よつ》ぎを定めねばならぬ。この多事な日に、内は諸藩の人心を鎮《しず》め、外は各国に応じて行かねばならぬ。徳川宗室を見渡したところ、その任に耐えそうなものは、一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》のほかにない。ことに一代の声望並ぶもののないような水戸の御隠居が現にその父親であるのだから、諸官一同申し合わせて、慶喜擁立のことを上請することになった。岩瀬肥後はその主唱者なのだ。水戸はもとより、京都方面まで異議のあろうはずもない。ところがこれには反対の説が出て、血統の近い紀州|慶福《よしとみ》を立てるのが世襲伝来の精神から見て正しいと唱え出した。その声は大奥の深い簾《すだれ》の内からも出、水戸の野心と陰謀を疑う大名有司の仲間からも出た。この形勢をみて取った岩瀬肥後は、血統の近いものを立てるという声を排斥して、年長で賢いものを立てるのが今日《こんにち》の急務であると力説し、老中|奉行《ぶぎょう》らもその説に賛成するものが多く、それを漏れ聞いた国内の有志者たちも皆大いに喜んで、太陽はこれから輝こうと言い合いながら、いずれもその時の来るのを待ち望んだ。意外にも、その上請をしないうちに、将軍は脚気《かっけ》にかかって、わずか五年を徳川十三代の一期として、にわかに薨去《こうきょ》した。岩瀬肥後の極力排斥した慶福《よしとみ》擁立説がまた盛り返して来た日を迎えて見ると、そこに将軍の遺旨を奉じて起《た》ち上がったのが井伊大老その人であったのだ。
岩瀬肥後の政治|生涯《しょうがい》はその時を終わりとした。水戸の御隠居を始めとして、尾州、
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