口へと潜むように伝わって来た。刺客はいずれも斬奸《ざんかん》主意書というを懐《ふところ》にしていたという。それには大老を殺害すべき理由を弁明してあったという。
「あの喜多村先生なぞが蝦夷《えぞ》の方で聞いたら、どんな気がするだろう。」
 と言って、思わず寛斎は宿の亭主と顔を見合わせた。
 井伊大老の横死《おうし》は絶対の秘密とされただけに、来たるべき時勢の変革を予想させるかのような底気味の悪い沈黙が周囲を支配した。首級を挙げられた大老をよく言う人は少ない。それほどの憎まれ者も、亡《な》くなったあとになって見ると、やっぱり大きい人物であったと、一方には言い出した人もある。なるほど、生前の大老はとかくの評判のある人ではあったが、ただ、他人にまねのできなかったことが一つある。外国交渉のことにかけては、天朝の威をも畏《おそ》れず、各藩の意見のためにも動かされず、断然として和親通商を許した上で、それから上奏の手続きを執った。この一事は天地も容《い》れない大罪を犯したように評するものが多いけれども、もしこの決断がなかったら、日本国はどうなったろう。軽く見積もって蝦夷はもとより、対州《つしま》も壱岐《いき》も英米仏露の諸外国に割《さ》き取られ、内地諸所の埠頭《ふとう》は随意に占領され、その上に背負《しょ》い切れないほどの重い償金を取られ、シナの道光《どうこう》時代の末のような姿になって、独立の体面はとても保たれなかったかもしれない。大老がこの至険至難をしのぎ切ったのは、この国にとっての大功と言わねばなるまい。こんなふうに言う人もあった。ともあれ、大老は徳川世襲伝来の精神をささえていた大極柱《だいこくばしら》の倒れるように倒れて行った。この報知《しらせ》を聞く彦根《ひこね》藩士の憤激、続いて起こって来そうな彦根と水戸両藩の葛藤《かっとう》は寛斎にも想像された。前途は実に測りがたかった。
 神奈川付近から横浜へかけての町々の警備は一層厳重をきわめるようになった。鶴見《つるみ》の橋詰めには杉《すぎ》の角柱《かくばしら》に大貫《おおぬき》を通した関門が新たに建てられた。夜になると、神奈川にある二か所の関門も堅く閉ざされ、三つ所紋の割羽織《わりばおり》に裁付袴《たっつけばかま》もいかめしい番兵が三人の人足を先に立てて、外国諸領事の仮寓《かぐう》する寺々から、神奈川台の異人屋敷の方までも警戒した。町々は夜ふけて出歩く人も少なく、あたりをいましめる太鼓の音のみが聞こえた。

       五

 ようやく、その年の閏《うるう》三月を迎えるころになって、※[#「□<万」、屋号を示す記号、191−2](角万《かくまん》)とした生糸の荷がぽつぽつ寛斎のもとに届くようになった。寛斎は順に来るやつを預かって、適当にその始末をしたが、木曾街道の宿場宿場を経て江戸回りで届いた荷を見るたびに、中津川商人が出向いて来る日の近いことを思った。毎日のように何かの出来事を待ち受けさせるかのような、こんな不安な周囲の空気の中で、よくそれでも生糸の荷が無事に着いたとも思った。
 万屋安兵衛《よろずややすべえ》が手代の嘉吉《かきち》を連れて、美濃《みの》の方を立って来たのは同じ月の下旬である。二人《ふたり》はやはり以前と同じ道筋を取って、江戸両国の十一屋泊まりで、旧暦四月にはいってから神奈川の牡丹屋《ぼたんや》に着いた。
 にわかに寛斎のまわりもにぎやかになった。旅の落《おと》し差《ざし》を床の間に預ける安兵衛もいる。部屋《へや》の片すみに脚絆《きゃはん》の紐《ひも》を解く嘉吉もいる。二人は寛斎の聞きたいと思う郷里の方の人たちの消息――彼の妻子の消息、彼の知人の消息、彼の旧《ふる》い弟子《でし》たちの消息ばかりでなく、何かこう一口には言ってしまえないが、あの東美濃の盆地の方の空気までもなんとなく一緒に寛斎のところへ持って来た。
 寛斎がたったりすわったりしているそばで、嘉吉は働き盛りの手代らしい調子で、
「宮川先生も、ずいぶんお待ちになったでしょう。なにしろ春蚕《はるご》の済まないうちは、どうすることもできませんでした。糸はでそろいませんし。」
 と言うと、安兵衛も寛斎をねぎらい顔に、
「いや、よく御辛抱《ごしんぼう》が続きましたよ。こんなに長くなるんでしたら、一度国の方へお帰りを願って、また出て来ていただいてもとは思いましたがね。」
 百里の道を往復して生糸商売でもしようという安兵衛には、さすがに思いやりがある。
「どうしても、だれか一人《ひとり》こっちにいないことには、浜の事情もよくわかりませんし、人任せでは安心もなりませんし――やっぱり先生に残っていていただいてよかったと思いました。」
 とも安兵衛は言い添えた。
 やがて灯《ひ》ともしごろであった。三人は久しぶりで一緒に食事を
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