、その篩《ふるい》が天に登って、異国へ飛んで往《い》ったともいう。これを見たものはびっくりして、これは必ず切支丹《キリシタン》に相違ないと言って、皆大いに恐懼《おそれ》を抱《いだ》いたとの話もある。
 異国に対する無知が、およそいかなる程度のものであったかは、黒船から流れ着いた空壜《あきびん》の話にも残っている。アメリカのペリイが来航当時のこと、多くの船員を乗せた軍艦からは空壜を海の中へ投げすてた。その投げすてられたものが風のない時は、底の方が重く口ばかり海面に出ていて、水がその中にはいるから、浪《なみ》のまにまに自然と海岸に漂着する。それを拾って黙って家に持ちかえるものは罰せられた。だから、こういうものが流れ着いたと言って、一々届け出なければならない。その時の役人の言葉に、これは先方で毒を入れて置くものに相違ない、もしこの中に毒がはいっていたら大変だ、さもなければこんなものを流す道理もない、きっと毒が盛ってあって日本人を苦しめようという軍略であろう、ついては一か所捨て置く場所を設ける、心得違いのものがあって万一届け出ない場合があったら直ちに召し捕《と》るとのきびしい触れを出したものだ。そこであっちの村から五本、こっちの村から三本、と続々届け出るものがある。役人らは毎日それを取り上げ、一軒の空屋《あきや》を借り受け、そのなかに積んで置いて、厳重な戸締まりをした。それが異人らの日常飲用する酒の空壜であるということすらわからなかったという。
 すべてこの調子だ。籐椅子《とういす》が風のために漂着したと言っては不思議がり、寝椅子が一個漂着したと言っては不思議がった。ペリイ出帆の翌日、アメリカ側から幕府への献上物の中には、壜詰《びんづめ》、罐詰《かんづめ》、その他の箱詰があり、浦賀奉行への贈り物があったが、これらの品々は江戸へ伺い済みの上で、浦賀の波止場で焼きすてたくらいだ。後日の祟《たた》りをおそれたのだ。実際、寛斎が中津川の商人について神奈川へ出て来たのは、そういう黒船の恐怖からまだ離れ切ることができなかったころである。
 ちょうど、時は安政大獄《あんせいのたいごく》のあとにあたる。彦根《ひこね》の城主、井伊掃部頭直弼《いいかもんのかみなおすけ》が大老の職に就《つ》いたころは、どれほどの暗闘と反目とがそこにあったかしれない。彦根と水戸。紀州と一橋《ひとつばし》。幕府内の有司と有司。その結果は神奈川条約調印の是非と、徳川世子の継嗣問題とにからんであらわれて来た。しかもそれらは大きな抗争の序幕であったに過ぎぬ。井伊大老の期するところは沸騰した国論の統一にあったろうけれど、彼は世にもまれに見る闘士として政治の舞台にあらわれて来た。いわゆる反対派の張本人なる水戸の御隠居(烈公)を初め、それに荷担した大名有司らが謹慎や蟄居《ちっきょ》を命ぜられたばかりでなく、強い圧迫は京都を中心に渦巻《うずま》き始めた新興勢力の苗床《なえどこ》にまで及んで行った。京都にある鷹司《たかつかさ》、近衛《このえ》、三条の三公は落飾《らくしょく》を迫られ、その他の公卿《くげ》たちの関東反対の嫌疑《けんぎ》のかかったものは皆謹慎を命ぜられた。老女と言われる身で、囚人として江戸に護送されたものもある。民間にある志士、浪人、百姓、町人などの捕縛と厳刑とが続きに続いた。一人《ひとり》は切腹に、一人は獄門に、五人は死罪に、七人は遠島に、十一人は追放に、九人は押込《おしこめ》に、四人は所払《ところばら》いに、三人は手鎖《てじょう》に、七人は無構《かまいなし》に、三人は急度叱《きっとしか》りに。勤王攘夷《きんのうじょうい》の急先鋒《きゅうせんぽう》と目ざされた若狭《わかさ》の梅田雲浜《うめだうんぴん》のように、獄中で病死したものが別に六人もある。水戸の安島帯刀《あじまたてわき》、越前《えちぜん》の橋本|左内《さない》、京都の頼鴨崖《らいおうがい》、長州の吉田松陰《よしだしょういん》なぞは、いずれも恨みをのんで倒れて行った人たちである。
 こんな周囲の空気の中で、だれもがまだ容易に信用しようともしない外国人の中へ、中津川の商人らは飛び込んで来た。神奈川条約はすでに立派に調印されて、外国貿易は公然の沙汰《さた》となっている。生糸でも売り込もうとするものにとって、なんの憚《はばか》るところはない。寛永十年以来の厳禁とされた五百石以上の大船を造ることも許されて、海はもはや事実において解放されている。遠い昔の航海者の夢は、二百何十年の長い鎖国の後に、また生き還《かえ》るような新しい機運に向かって来ている。


 寛斎がこの出稼ぎに来たころは六十に近かった。田舎《いなか》医者としての彼の漢方での治療の届くかぎりどんな患者でも診《み》ないことはなかったが、中にも眼科を得意にし、中津川の町より
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