れよう。長崎に、浦賀に、下田に、続々到着する新しい外国人が、これまでのオランダ人の執った態度をかなぐり捨てようとは、どうして知ろう。全く対等の位置に立って、一国を代表する使節の威厳を損ずることなしに、重い使命を果たしに来たとは、どうして知ろう。この国のものは、ヨーロッパそのものを静かによく見うるようなまず最初の機会を失った。迫り来るものは、誠意のほども測りがたい全くの未知数であった。求めらるるものは幾世紀もかかって積み重ね積み重ねして来たこの国の文化ではなくて、この島に産する硫黄《いおう》、樟脳《しょうのう》、生糸《きいと》、それから金銀の類《たぐい》なぞが、その最初の主《おも》なる目的物であったのだ。
 十一月下旬のはじめには、半蔵らは二日ほど逗留《とうりゅう》した公郷村をも辞し、山上の家族にも別れを告げ、七郎左衛門から記念として贈られた古刀や光琳《こうりん》の軸なぞをそれぞれ旅の荷物に納めて、故郷の山へ向かおうとする人たちであった。おそらく今度の帰り途《みち》には、国を出て二度目に見る陰暦十五夜の月も照らそう。その旅の心は、熱い寂しい前途の思いと一緒になって、若い半蔵の胸にまじり合った。別れぎわに、七郎左衛門は街道から海の見えるところまで送って来て、下田の方の空を半蔵らにさして見せた。もはや異国の人は粗末な板画《はんが》などで見るような、そんな遠いところにいる人たちばかりではなかった。相模灘《さがみなだ》をへだてた下田の港の方には、最初のアメリカ領事ハリス、その書記ヒュウスケンが相携えてすでに海から陸に上り、長泉寺を仮の領事館として、赤と青と白とで彩《いろど》った星条の国旗を高くそこに掲げていたころである。
[#改頁]

     第四章

       一

 中津川の商人、万屋安兵衛《よろずややすべえ》、手代《てだい》嘉吉《かきち》、同じ町の大和屋李助《やまとやりすけ》、これらの人たちが生糸売り込みに目をつけ、開港後まだ間もない横浜へとこころざして、美濃《みの》を出発して来たのはやがて安政六年の十月を迎えたころである。中津川の医者で、半蔵の旧《ふる》い師匠にあたる宮川寛斎《みやがわかんさい》も、この一行に加わって来た。もっとも、寛斎はただの横浜見物ではなく、やはり出稼《でかせ》ぎの一人《ひとり》として――万屋安兵衛の書役《かきやく》という形で。
 一行四人は中津川から馬籠峠《まごめとうげ》を越え、木曾《きそ》街道を江戸へと取り、ひとまず江戸両国の十一屋に落ち着き、あの旅籠屋《はたごや》を足だまりとして、それから横浜へ出ようとした。木曾出身で世話好きな十一屋の隠居は、郷里に縁故の深い美濃衆のためにも何かにつけて旅の便宜を計ろうとするような人だ。この隠居は以前に馬籠本陣の半蔵を泊め、今また寛斎の宿をして、弟子《でし》と師匠とを江戸に迎えるということは、これも何かの御縁であろうなどと話した末に言った。
「皆さまは神奈川《かながわ》泊まりのつもりでお出かけになりませんと、浜にはまだ旅籠屋《はたごや》もございますまいよ。神奈川の牡丹屋《ぼたんや》、あそこは古くからやっております。牡丹屋なら一番安心でございますぞ。」
 こんな隠居の話を聞いて、やがて一行四人のものは東海道筋を横浜へ向かった。
 横浜もさみしかった。地勢としての横浜は神奈川より岸深《きしぶか》で、海岸にはすでに波止場《はとば》も築《つ》き出《だ》されていたが、いかに言ってもまだ開けたばかりの港だ。たまたま入港する外国の貿易船があっても、船員はいずれも船へ帰って寝るか、さもなければ神奈川まで来て泊まった。下田を去って神奈川に移った英国、米国、仏国、オランダ等の諸領事はさみしい横浜よりもにぎやかな東海道筋をよろこび、いったん仮寓《かぐう》と定めた本覚寺その他の寺院から動こうともしない。こんな事情をみて取った寛斎らは、やはり十一屋の隠居から教えられたとおりに、神奈川の牡丹屋に足をとどめることにした。
 この出稼《でかせ》ぎは、美濃から来た四人のものにとって、かなりの冒険とも思われた。中津川から神奈川まで、百里に近い道を馬の背で生糸の材料を運ぶということすら容易でない。おまけに、相手は、全く知らない異国の人たちだ。


 当時、異国のことについては、実にいろいろな話が残っている。ある異人が以前に日本へ来た時、この国の女を見て懸想《けそう》した。異人はその女をほしいと言ったが、許されなかった。そんなら女の髪の毛を三本だけくれろと言うので、しかたなしに三本与えた。ところが、どうやらその女は異人の魔法にでもかかったかして、とうとう異国へ往《い》ってしまったという。その次ぎに来た異人がまた、女の髪の毛を三本と言い出したから、今度は篩《ふるい》の毛を三本抜いて与えた。驚くべきことには
前へ 次へ
全119ページ中53ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング