も近在回りを主にして、病家から頼まれれば峠越しに馬籠《まごめ》へも行き、三留野《みどの》へも行き、蘭《あららぎ》、広瀬から清内路《せいないじ》の奥までも行き、余暇さえあれば本を読み、弟子《でし》を教えた。学問のある奇人のように言われて来たこの寛斎が医者の玄関も中津川では張り切れなくなったと言って、信州|飯田《いいだ》の在に隠退しようと考えるようになったのも、つい最近のことである。今度一緒に来た万屋《よろずや》の主人は日ごろ彼が世話になる病院先のことであり、生糸売り込みもよほどの高に上ろうとの見込みから、彼の力にできるだけの手伝いもして、その利得を分けてもらうという約束で来ている。彼ももう年をとって、何かにつけて心細かった。最後の「隠れ家《が》」に余生を送るよりほかの願いもなかった。
さしあたり寛斎の仕事は、安兵衛らを助けて横浜貿易の事情をさぐることであった。新参の西洋人は内地の人を引きつけるために、なんでも買い込む。どうせ初めは金を捨てなければいけないくらいのことは外国商人も承知していて、気に入らないものでも買って見せる。江戸の食い詰め者で、二進《にっち》も三進《さっち》も首の回らぬ連中なぞは、一つ新開地の横浜へでも行って見ようという気分で出かけて来る時だ。そういう連中が持って来るような、二文か三文の資本《もとで》で仕入れられるおもちゃ[#「おもちゃ」は底本では「おもちや」]の類《たぐい》でさえ西洋人にはめずらしがられた。徳川大名の置き物とさえ言えば、仏壇の蝋燭立《ろうそくだ》てを造りかえたような、いかがわしい骨董品《こっとうひん》でさえ二両の余に売れたという。まだ内地の生糸商人はいくらも入り込んでいない。万屋《よろずや》安兵衛、大和屋李助《やまとやりすけ》なぞにとって、これは見のがせない機会だった。
だんだん様子がわかって来た。神奈川在留の西洋人は諸国領事から書記まで入れて、およそ四十人は来ていることがわかった。紹介してもらおうとさえ思えば、適当な売り込み商の得られることもわかった。おぼつかないながらも用を達《た》すぐらいの通弁は勤まるというものも出て来た。
やがて寛斎は安兵衛らと連れだって、一人の西洋人を見に行った。二十戸ばかりの異人屋敷、最初の居留地とは名ばかりのように隔離した一区域が神奈川台の上にある。そこに住む英国人で、ケウスキイという男は、横浜の海岸通りに新しい商館でも建てられるまで神奈川に仮住居《かりずまい》するという貿易商であった。初めて寛斎の目に映るその西洋人は、羅紗《らしゃ》の丸羽織を着、同じ羅紗の股引《ももひき》をはき、羽織の紐《ひも》のかわりに釦《ぼたん》を用いている。手まわりの小道具一切を衣裳《いしょう》のかくしにいれているのも、異国の風俗だ。たとえば手ぬぐいは羽織のかくしに入れ、金入れは股引《ももひき》のかくしに入れ、時計は胴着のかくしに入れて鎖を釦《ぼたん》の穴に掛けるというふうに。履物《はきもの》も変わっている。獣の皮で造った靴《くつ》が日本で言って見るなら雪駄《せった》の代わりだ。
安兵衛らの持って行って見せた生糸の見本は、ひどくケウスキイを驚かした。これほど立派な品ならどれほどでも買おうと言うらしいが、先方の言うことは燕《つばめ》のように早口で、こまかいことまでは通弁にもよくわからない。ケウスキイはまた、安兵衛らの結い立ての髷《まげ》や、すっかり頭を円《まる》めている寛斎の医者らしい風俗をめずらしそうにながめながら、煙草《たばこ》なぞをそこへ取り出して、客にも勧めれば自分でもうまそうに服《の》んで見せた。寛斎が近く行って見たその西洋人は、髪の毛色こそ違い、眸《ひとみ》の色こそ違っているが、黒船の連想と共に起こって来るような恐ろしいものでもない。幽霊でもなく、化け物でもない。やはり血の気の通《かよ》っている同じ人間の仲間だ。
「糸目百匁あれば、一両で引き取ろうと言っています。」
この売り込み商の言葉に、安兵衛らは力を得た。百匁一両は前代未聞の相場であった。
早い貿易の様子もわかり、糸の値段もわかった。この上は一日も早く神奈川を引き揚げ、来る年の春までにはできるだけ多くの糸の仕入れもして来よう。このことに安兵衛と李助《りすけ》は一致した。二人《ふたり》が見本のつもりで持って来て、牡丹屋《ぼたんや》の亭主《ていしゅ》に預かってもらった糸まで約束ができて、その荷だけでも一個につき百三十両に売れた。
「宮川先生、あなただけは神奈川に残っていてもらいますぜ。」
と安兵衛は言ったが、それはもとより寛斎も承知の上であった。
「先生も一人《ひとり》で、鼠《ねずみ》にでも引かれないようにしてください。」
手代の嘉吉《かきち》は嘉吉らしいことを言って、置いて行くあとの事を堅く寛斎に託した。中津川と
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