満ちあふれていた。
半蔵らがめざして行った十一屋という宿屋は両国《りょうごく》の方にある。小網町《こあみちょう》、馬喰町《ばくろちょう》、日本橋|数寄屋町《すきやちょう》、諸国旅人の泊まる定宿《じょうやど》もいろいろある中で、半蔵らは両国の宿屋を選ぶことにした。同郷の人が経営しているというだけでもその宿屋は心やすく思われたからで。ちょうど、昌平橋《しょうへいばし》から両国までは船で行かれることを教えてくれる人もあって、三人とも柳の樹《き》の続いた土手の下を船で行った。うわさに聞く浅草橋《あさくさばし》まで行くと、筋違《すじかい》で見たような見附《みつけ》の門はそこにもあった。両国の宿屋は船の着いた河岸《かし》からごちゃごちゃとした広小路《ひろこうじ》を通り抜けたところにあって、十一屋とした看板からして堅気風《かたぎふう》な家だ。まだ昼前のことで、大きな風呂敷包《ふろしきづつ》みを背負《しょ》った男、帳面をぶらさげて行く小僧なぞが、その辺の町中を往《い》ったり来たりしていた。
「皆さんは木曾《きそ》の方から。まあ、ようこそ。」
と言って迎えてくれる若いかみさんの声を聞きながら、半蔵も寿平次も草鞋《わらじ》の紐《ひも》を解いた。そこへ荷を卸した佐吉のそばで、二人《ふたり》とも長い道中のあとの棒のようになった足を洗った。
「ようやく、ようやく。」
二階の部屋《へや》へ案内されたあとで、半蔵は寿平次と顔を見合わせて言ったが、まだ二人とも脚絆《きゃはん》をつけたままだった。
「ここまで来ると、さすがに陽気は違いますなあ。宿屋の女中なぞはまだ袷《あわせ》を着ていますね。」
と寿平次も言って、その足で部屋のなかを歩き回った。
半蔵が江戸へ出たころは、木曾の青年でこの都会に学んでいるという人のうわさも聞かなかった。ただ一人《ひとり》、木曾福島の武居拙蔵《たけいせつぞう》、その人は漢学者としての古賀※[#「にんべん+同」、第3水準1−14−23]庵《こがどうあん》に就《つ》き、塩谷宕陰《しおのやとういん》、松崎慊堂《まつざきこうどう》にも知られ、安井息軒《やすいそっけん》とも交わりがあって、しばらく御茶《おちゃ》の水《みず》の昌平黌《しょうへいこう》に学んだが、親は老い家は貧しくて、数年前に郷里の方へ帰って行ったといううわさだけが残っていた。
半蔵もまだ若かった。青年として生くべき道を求めていた彼には、そうした方面のうわさにも心をひかれた。それにもまして彼の注意をひいたのは、幕府で設けた蕃書調所《ばんしょしらべしょ》なぞのすでに開かれていると聞くことだった。箕作阮甫《みつくりげんぽ》、杉田成卿《すぎたせいけい》なぞの蘭《らん》学者を中心に、諸人所蔵の蕃書の翻訳がそこで始まっていた。
この江戸へ出て来て見ると、日に日に外国の勢力の延びて来ていることは半蔵なぞの想像以上である。その年の八月には三隻の英艦までが長崎にはいったことの報知《しらせ》も伝わっている。品川沖《しながわおき》には御台場《おだいば》が築かれて、多くの人の心に海防の念をよび起こしたとも聞く。外国|御用掛《ごようがかり》の交代に、江戸城を中心にした交易大評定のうわさに、震災後めぐって来た一周年を迎えた江戸の市民は毎日のように何かの出来事を待ち受けるかのようでもある。
両国へ着いた翌日、半蔵は寿平次と二人で十一屋の二階にいて、遠く町の空に響いて来る大砲調練の音なぞをききながら、旅に疲れたからだを休めていた。佐吉も階下《した》で別の部屋《へや》に休んでいた。同郷と聞いてはなつかしいと言って、半蔵たちのところへ話し込みに来る宿屋の隠居もある。その話し好きな隠居は、木曾の山の中を出て江戸に運命を開拓するまでの自分の苦心なぞを語った末に、
「あなたがたに江戸の話を聞かせろとおっしゃられても、わたしも困る。」
と断わって、なんと言っても忘れがたいのは嘉永《かえい》六年の六月に十二代将軍の薨去《こうきょ》を伝えたころだと言い出した。
受け売りにしても隠居の話はくわしかった。ちょうどアメリカのペリイが初めて浦賀に渡来した翌日あたりは、将軍は病の床にあった。強い暑さに中《あた》って、多勢の医者が手を尽くしても、将軍の疲労は日に日に増すばかりであった。将軍自身にももはや起《た》てないことを知りながら、押して老中を呼んで、今回の大事は開闢《かいびゃく》以来の珍事である、自分も深く心を痛めているが、不幸にして大病に冒され、いかんともすることができないと語ったという。ついては、水戸《みと》の隠居(烈公)は年来海外のことに苦心して、定めしよい了簡《りょうけん》もあろうから、自分の死後外国処置の件は隠居に相談するようにと言い置いたという。アメリカの軍艦が内海に乗り入れたのは、その夜のことで
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