あった。宿直のものから、ただいま伊勢《いせ》(老中|阿部《あべ》)登城、ただいま備後《びんご》(老中牧野)登城と上申するのを聞いて、将軍はすぐにこれへ呼べと言い、「肩衣《かたぎぬ》、肩衣」と求めた。その時将軍はすでに疲れ切っていた。極度に困《くる》しんで、精神も次第に恍惚《こうこつ》となるほどだった。それでも人に扶《たす》けられて、いつものように正しくすわり直し、肩衣を着けた。それから老中を呼んで、二人《ふたり》の言うことを聞こうとしたが、アメリカの軍艦がまたにわかに外海へ出たという再度の報知《しらせ》を得たので、二人の老中も拝謁《はいえつ》を請うには及ばないで引き退いた。翌日、将軍は休息の部屋《へや》で薨《こう》じた。
 十一屋の隠居はこの話を日ごろ出入りする幕府|奥詰《おくづめ》の医者で喜多村瑞見《きたむらずいけん》という人から聞いたと半蔵らに言い添えて見せた。さらに言葉を継いで、
「わたしはあの公方様《くぼうさま》の話を思い出すと、涙が出て来ます。何にしろ、あなた、初めて異国の船が内海に乗り入れた時の江戸の騒ぎはありませんや。諸大名は火事具足《かじぐそく》で登城するか、持ち場持ち場を堅めるかというんでしょう。火の用心のお触れは出る。鉄砲や具足の値は平常《ふだん》の倍になる。海岸の方に住んでいるものは、みんな荷物を背負《しょ》って逃げましたからね。わたしもこんな宿屋商売をして見ていますが、世の中はあれから変わりましたよ。」
 半蔵も、寿平次も、この隠居の出て行ったあとで、ともかくも江戸の空気の濃い町中に互いの旅の身を置き得たことを感じた。木曾の山の中にいて想像したと、出て来て見たとでは、実にたいした相違であることをも感じた。
「半蔵さん、きょうは国へ手紙でも書こう。」
「わたしも一つ、馬籠《まごめ》へ出すか。」


「半蔵さん、君はそれじゃ佐吉を連れて、あす平田先生を訪《たず》ねるとしたまえ。」
 とりあえずそんな相談をして、その日一日は二人とも休息することにした。旅に限りがあって、そう長い江戸の逗留《とうりゅう》は予定の日取りが許さなかった。まだこれから先に日光《にっこう》行き、横須賀《よこすか》行きも二人を待っていた。
 寿平次は手を鳴らして宿のかみさんを呼んだ。もうすこし早く三人が出て来ると、夷講《えびすこう》に間に合って、大伝馬町《おおてんまちょう》の方に立つべったら市のにぎわいも見られたとかみさんはいう。芝居《しばい》は、と尋ねると、市村《いちむら》、中村、森田三座とも狂言|名題《なだい》の看板が出たばかりのころで、茶屋のかざり物、燈籠《とうろう》、提灯《ちょうちん》、つみ物なぞは、あるいは見られても、狂言の見物には月のかわるまで待てという。当時売り出しの作者の新作で、世話に砕けた小団次《こだんじ》の出し物が見られようかともいう。
「朔日《ついたち》の顔見世《かおみせ》は明けの七つ時《どき》でございますよ。太夫《たゆう》の三番叟《さんばそう》でも御覧になるんでしたら、暗いうちからお起きにならないと、間に合いません。」
「江戸の芝居見物も一日がかりですね。」
 こんな話の出るのも、旅らしかった。
 夕飯後、半蔵はかねて郷里を出る時に用意して来た一通の書面を旅の荷物の中から取り出した。
「どれ、一つ寿平次さんに見せますか。これがあす持って行く誓詞《せいし》です。」
 と言って寿平次の前に置いた。
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    誓詞
「このたび、御門入り願い奉《たてまつ》り候《そうろう》ところ、御許容なし下され、御門人の列に召し加えられ、本懐の至りに存じ奉り候。しかる上は、専《もは》ら皇国の道を尊信いたし、最も敬神の儀怠慢いたすまじく、生涯《しょうがい》師弟の儀忘却|仕《つかまつ》るまじき事。
公《おおやけ》の御制法に相背《あいそむ》き候儀は申すに及ばず。すべて古学を申し立て、世間に異様の行ないをいたし、人の見聞を驚かし候ようの儀これあるまじく、ことさら師伝と偽り奇怪の説など申し立て候儀、一切仕るまじき事。
御流儀においては、秘伝口授など申す儀、かつてこれなき段、堅く相守り、さようの事申し立て候儀これあるまじく、すべて鄙劣《ひれつ》の振舞をいたし古学の名を穢《けが》し申すまじき事。
学の兄弟相かわらず随分|睦《むつ》まじく相交わり、互いに古学興隆の志を相励み申すべく、我執《がしゅう》を立て争論なぞいたし候儀これあるまじき事。
右の条々、謹《つつし》んで相守り申すべく候。もし違乱に及び候わば、八百万《やおよろず》の天津神《あまつかみ》、国津神《くにつかみ》、明らかに知ろしめすべきところなり。よって、誓詞|如件《くだんのごとし》。」
[#地から4字上げ]信州、木曾、馬籠村
[#地から2字上げ]青山半蔵
  安政三年十月

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