和尚さまが禅僧らしい質素な法衣に茶色の袈裟《けさ》がけで、わざわざ見送りに来たのも半蔵の心をひいた。
「夜道は気をつけるがいいぜ。なるべく朝は早く立つようにして、日の暮れるまでには次ぎの宿《しゅく》へ着くようにするがいいぜ。」
 この父の言葉を聞いて、間もなく半蔵は佐吉と共に峠の上から離れて行った。この山地には俗に「道知らせ」と呼んで、螢《ほたる》の形したやさしい虫があるが、その青と紅のあざやかな色の背を見せたやつまでが案内顔に、街道を踏んで行く半蔵たちの行く先に飛んだ。


 隣宿|妻籠《つまご》の本陣には寿平次がこの二人《ふたり》を待っていた。その日は半蔵も妻籠泊まりときめて、一夜をお民の生家《さと》に送って行くことにした。寿平次を見るたびに半蔵の感ずることは、よくその若さで本陣|庄屋《しょうや》問屋《といや》三役の事務を処理して行くことであった。寿平次の部屋《へや》には、先代からつけて来たという覚え帳がある。諸大名宿泊のおりの人数、旅籠賃《はたごちん》から、入り用の風呂《ふろ》何本、火鉢《ひばち》何個、燭台《しょくだい》何本というようなことまで、事こまかに記《しる》しつけてある。当時の諸大名は、各自に寝具、食器の類《たぐい》を携帯して、本陣へは部屋代を払うというふうであったからで。寿平次の代になってもそんなめんどうくさいことを一々書きとめて、後日の参考とすることを怠っていない。半蔵が心深くながめたのもその覚え帳だ。
「寿平次さん、今度の旅は佐吉に供をさせます。そのつもりで馬籠から連れて来ました。あれも江戸を見たがっていますよ。君の荷物はあれにかつがせてください。」
 この半蔵の言葉も寿平次をよろこばせた。
 翌朝、佐吉はだれよりも一番早く起きて、半蔵や寿平次が目をさましたころには、二足の草鞋《わらじ》をちゃんとそろえて置いた。自分用の檜木笠《ひのきがさ》、天秤棒《てんびんぼう》まで用意した。それから囲炉裏ばたにかしこまって、主人らのしたくのできるのを待った。寿平次は留守中のことを脇《わき》本陣の扇屋《おうぎや》の主人、得右衛門《とくえもん》に頼んで置いて、柿色《かきいろ》の地《じ》に黒羅紗《くろらしゃ》の襟《えり》のついた合羽《かっぱ》を身につけた。関所の通り手形も半蔵と同じように用意した。
 妻籠の隠居はもういい年のおばあさんで、孫にあたる寿平次をそれまでに守り立てた人である。お民の女の子のうわさを半蔵にして、寿平次に迎えた娵《よめ》のお里にはまだ子がないことなどを言って見せる人である。隠居は家の人たちと一緒に門口に出て、寿平次を見送る時に言った。
「お前にはもうすこし背をくれたいなあ。」
 この言葉が寿平次を苦笑させた。隠居は背の高い半蔵に寿平次を見比べて、江戸へ行って恥をかいて来てくれるなというふうにそれを言ったからで。
 半蔵や寿平次は檜木笠をかぶった。佐吉も荷物をかついでそのあとについた。同行三人のものはいずれも軽い草鞋《わらじ》で踏み出した。

       二

 木曾十一宿はおおよそ三つに分けられて、馬籠《まごめ》、妻籠《つまご》、三留野《みどの》、野尻《のじり》を下《しも》四宿といい、須原《すはら》、上松《あげまつ》、福島《ふくしま》を中《なか》三宿といい、宮《みや》の越《こし》、藪原《やぶはら》、奈良井《ならい》、贄川《にえがわ》を上《かみ》四宿という。半蔵らの進んで行った道はその下四宿から奥筋への方角であるが、こうしてそろって出かけるということがすでにめずらしいことであり、興も三人の興で、心づかいも三人の心づかいであった。あそこの小屋の前に檜木《ひのき》の実が乾《ほ》してあった、ここに山の中らしい耳のとがった茶色な犬がいた、とそんなことを語り合って行く間にも楽しい笑い声が起こった。一人の草鞋《わらじ》の紐《ひも》が解けたと言えば、他の二人《ふたり》はそれを結ぶまで待った。
 深い森林の光景がひらけた。妻籠から福島までの間は寿平次のよく知っている道で、福島の役所からの差紙《さしがみ》でもあるおりには半蔵も父吉左衛門の代理としてこれまで幾たびとなく往来したことがある。幼い時分から街道を見る目を養われた半蔵らは、馬方や人足や駕籠《かご》かきなぞの隠れたところに流している汗を行く先に見つけた。九月から残った蠅《はえ》は馬にも人にも取りついて、それだけでも木曾路の旅らしい思いをさせた。
「佐吉、どうだい。」
「おれは足は達者《たっしゃ》だが、お前さまは。」
「おれも歩くことは平気だ。」
 寿平次と連れだって行く半蔵は佐吉を顧みて、こんな言葉をかわしては、また進んだ。
 秋も過ぎ去りつつあった。色づいた霜葉《しもは》は谷に満ちていた。季節が季節なら、木曾川の水流を利用して山から伐《き》り出した材木を流しているさ
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