かけてもその流れをくむものは少なくない。篤胤ののこした仕事はおもに八人のすぐれた弟子《でし》に伝えられ、その中でも特に選ばれた養嗣《ようし》として平田家を継いだのが当主|鉄胤《かねたね》であった。半蔵が入門は、中津川の宮川寛斎《みやがわかんさい》の紹介によるもので、いずれ彼が江戸へ出た上は平田家を訪《たず》ねて、鉄胤からその許しを得ることになっていた。
「お父《とっ》さんに賛成していただいて、ほんとにありがたい。長いこと私はこの日の来るのを待っていたようなものですよ。」
 と半蔵は先輩を慕う真実を顔にあらわして言った。同じ道を踏もうとしている中津川の浅見景蔵も、蜂谷香蔵も、さぞ彼のためによろこんでくれるだろうと父に話した。
「まあ、何も試みだ。」
 と吉左衛門は持ち前の大きな本陣鼻の上へしわを寄せながら言った。父は半蔵からいろいろと入門の手続きなぞを聞いたのみで、そう深入りするなとも言わなかった。
 安政の昔は旅も容易でなかった。木曾谷の西のはずれから江戸へ八十三里、この往復だけにも百六十六里の道は踏まねばならない。その間、峠を四つ越して、関所を二つも通らねばならない。吉左衛門は関西方面に明るいほど東の方の事情に通じてもいなかったが、それでも諸街道問屋の一人《ひとり》として江戸の道中奉行所《どうちゅうぶぎょうしょ》へ呼び出されることがあって、そんな用向きで二、三度は江戸の土を踏んだこともある。この父は、いろいろ旅の心得になりそうなことを子に教えた。寿平次のようなよい連れがあるにしても、若い者|二人《ふたり》ぎりではどうあろうかと言った。遠く江戸から横須賀辺までも出かけるには、伴《とも》の男を一人連れて行けと勧めた。当時の旅行者が馬や人足を雇い、一人でも多く連れのあるのをよろこび、なるべく隊伍《たいご》をつくるようにしてこの街道を往《い》ったり来たりするのも、それ相応の理由がなくてはかなわぬことを父は半蔵に指摘して見せた。
「ひとり旅のものは宿屋でも断わられるぜ。」
 とも注意した。
 かねて妻籠の本陣とも打ち合わせの上、出発の日取りも旧暦の十月上旬に繰りあげてあった。いよいよその日も近づいて、継母のおまんは半蔵のために青地《あおじ》の錦《にしき》の守り袋を縫い、妻のお民は晒木綿《さらし》の胴巻きなぞを縫ったが、それを見る半蔵の胸にはなんとなく前途の思いがおごそかに迫って来た。遠く行くほどのものは、河止《かわど》めなぞの故障の起こらないかぎり、たとい強い風雨を冒しても必ず予定の宿《しゅく》まではたどり着けと言われているころだ。遊山《ゆさん》半分にできる旅ではなかった。


「佐吉さん、お前は半蔵さまのお供だそうなのい。」
「あい、半蔵さまもそう言ってくれるし、大旦那《おおだんな》からもお許しが出たで。」
 おふきはだれよりも先に半蔵の門出《かどで》を見送りに来て、もはや本陣の囲炉裏ばたのところで旅じたくをしている下男の佐吉を見つけた。佐吉は雇われて来てからまだ年も浅く、半蔵といくつも違わないくらいの若さであるが、今度江戸への供に選ばれたことをこの上もないよろこびにして、留守中主人の家の炉で焚《た》くだけの松薪《まつまき》なぞはすでに山から木小屋へ運んで来てあった。
 いよいよ出発の時が来た。半蔵は青い河内木綿《かわちもめん》の合羽《かっぱ》を着、脚絆《きゃはん》をつけて、すっかり道中姿になった。旅の守り刀は綿更紗《めんざらさ》の袋で鍔元《つばもと》を包んで、それを腰にさした。
「さあ、これだ。これさえあれば、どんな関所でも通られる。」
 と吉左衛門は言って、一枚の手形《てがた》を半蔵の前に置いた。関所の通り手形だ。それには安政三年十月として、宿役人の署名があり、馬籠宿の印が押してある。
「このお天気じゃ、あすも霜でしょう。半蔵も御苦労さまだ。」
 という継母にも、女の子のお粂《くめ》を抱きながら片手に檜木笠《ひのきがさ》を持って来てすすめる妻にも別れを告げて、やがて半蔵は勇んで家を出た。おふきは、目にいっぱい涙をためながら、本陣の女衆と共に門口に出て見送った。
 峠には、組頭《くみがしら》平助の家がある。名物|栗《くり》こわめしの看板をかけた休み茶屋もある。吉左衛門はじめ、組頭|庄兵衛《しょうべえ》、そのほか隣家の鶴松《つるまつ》のような半蔵の教え子たちは、峠の上まで一緒に歩いた。当時の風習として、その茶屋で一同別れの酒をくみかわして、思い思いに旅するものの心得になりそうなことを語った。出発のはじめはだれしも心がはやって思わず荒く踏み立てるものである、とかくはじめは足をたいせつにすることが肝要だ、と言うのは庄兵衛だ。旅は九日路《ここのかじ》のものなら、十日かかって行け、と言って見せるのはそこへ来て一緒になった平助だ。万福寺の松雲
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