かんな活動のさまがその街道から望まれる。小谷狩《こたにがり》にはややおそく、大川狩《おおかわがり》にはまだ早かった。河原《かわら》には堰《せき》を造る日傭《ひよう》の群れの影もない。木鼻《きはな》、木尻《きじり》の作業もまだ始まっていない。諸役人が沿岸の警戒に出て、どうかすると、鉄砲まで持ち出して、盗木流材を取り締まろうとするような時でもない。半蔵らの踏んで行く道はもはや幾たびか時雨《しぐれ》の通り過ぎたあとだった。気の置けないものばかりの旅で、三人はときどき路傍《みちばた》の草の上に笠《かさ》を敷いた。小松の影を落としている川の中洲《なかず》を前にして休んだ。対岸には山が迫って、檜木、椹《さわら》の直立した森林がその断層を覆《おお》うている。とがった三角を並べたように重なり合った木と木の梢《こずえ》の感じも深い。奥筋の方から渦巻《うずま》き流れて来る木曾川[#「木曾川」は底本では「木曽川」]の水は青緑の色に光って、乾《かわ》いたりぬれたりしている無数の白い花崗石《みかげいし》の間におどっていた。
 その年は安政の大地震後初めての豊作と言われ、馬籠の峠の上のような土地ですら一部落で百五十俵からの増収があった。木曾も妻籠から先は、それらの自然の恵みを受くべき田畠《たはた》とてもすくない。中三宿となると、次第に谷の地勢も狭《せば》まって、わずかの河岸《かし》の傾斜、わずかの崖《がけ》の上の土地でも、それを耕地にあててある。山のなかに成長して樹木も半分友だちのような三人には、そこの河岸に莢《さや》をたれた皀莢《さいかち》の樹《き》がある、ここの崖の上に枝の細い棗《なつめ》の樹があると、指《さ》して言うことができた。土地の人たちが路傍に設けた意匠もまたしおらしい。あるところの石垣《いしがき》の上は彼らの花壇であり、あるところの崖の下は二十三夜もしくは馬頭観音《ばとうかんのん》なぞの祭壇である。
 この谷の中だ。木曾地方の人たちが山や林を力にしているのに不思議はない。当時の木曾山一帯を支配するものは尾張藩《おわりはん》で、巣山《すやま》、留山《とめやま》、明山《あきやま》の区域を設け、そのうち明山のみは自由林であっても、許可なしに村民が五木を伐採することは禁じられてあった。言って見れば、檜木《ひのき》、椹《さわら》、明檜《あすひ》、高野槇《こうやまき》、※[#「木+鑞のつくり」、118−13]《ねずこ》の五種類が尾張藩の厳重な保護のもとにあったのだ。半蔵らは、名古屋から出張している諸役人の心が絶えずこの森林地帯に働いていることを知っていた。一石栃《いちこくとち》にある白木《しらき》の番所から、上松《あげまつ》の陣屋の辺へかけて、諸役人の目の光らない日は一日もないことを知っていた。
 しかし、巣山、留山とは言っても、絶対に村民の立ち入ることを許されない区域は極少部分に限られていた。自由林は木曾山の大部分を占めていた。村民は五木の厳禁を犯さないかぎり、意のままに明山を跋渉《ばっしょう》して、雑木を伐採したり薪炭《しんたん》の材料を集めたりすることができた。檜木笠、めんぱ(木製|割籠《わりご》)、お六櫛《ろくぐし》、諸種の塗り物――村民がこの森林に仰いでいる生活の資本《もとで》もかなり多い。耕地も少なく、農業も難渋で、そうかと言って塗り物渡世の材料も手に入れがたいところでは、「御免《ごめん》の檜物《ひもの》」と称《とな》えて、毎年千数百|駄《だ》ずつの檜木を申し受けている村もある。あるいはまた、そういう木材で受け取らない村々では、慶長《けいちょう》年度の昔から谷中一般人民に許された白木六千駄のかわりに、それを「御切替《おきりか》え」と称えて、代金で尾張藩から分配されて来た。これらは皆、歴史的に縁故の深い尾張藩が木曾山保護の精神にもとづく。どうして、山や林なしに生きられる地方ではないのだ。半蔵らの踏んで行ったのも、この大きな森林地帯を貫いている一筋道だ。
 寝覚《ねざめ》まで行くと、上松《あげまつ》の宿の方から荷をつけて来る牛の群れが街道に続いた。
「半蔵さま、どちらへ。」
 とその牛方仲間から声をかけるものがある。見ると、馬籠の峠のものだ。この界隈《かいわい》に顔を知られている牛行司《うしぎょうじ》利三郎だ。その牛行司は福島から積んで来た荷物の監督をして、美濃《みの》の今渡《いまど》への通し荷を出そうとしているところであった。
 その時、寿平次が尋ね顔に佐吉の方をふりかえると、佐吉は笑って、
「峠の牛よなし。」
 と無造作に片づけて見せた。
「寿平次さん、君も聞いたでしょう。あれが牛方事件の張本人でさ。」
 と言って、半蔵は寿平次と一緒に、その荒い縞《しま》の回《まわ》し合羽《がっぱ》を着た牛行司の後ろ姿を見送った。
 下民百姓の目をさまさせ
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