」とおまんが寿平次にきいた。
「なかなか立派な人でしたよ。なんでも話の様子では、よほど古い家らしい。相州の方へ帰るとすぐ系図と一緒に手紙をくれましてね、ぜひ一度|訪《たず》ねて来てくれと言ってよこしましたよ。」
「お民、店座敷へ行って、わたしの机の上にある筆と紙を持っといで。」半蔵は妻に言いつけて置いて、さらに寿平次の方を見て言った。「もう一度、その山上という人の住所を言って見てくれませんか。忘れないように、書いて置きたいと思うから。」
 半蔵は紙をひろげて、まだ若々しくはあるがみごとな筆で、寿平次の言うとおりを写し取った。
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相州三浦、横須賀《よこすか》在、公郷《くごう》村
         山上七郎左衛門
[#ここで字下げ終わり]
「寿平次さん。」と半蔵はさらに言葉をつづけた。「それで君は――」
「だからさ。半蔵さんと二人《ふたり》で、一つその相州三浦を訪《たず》ねて見たらと思うのさ。」
「訪ねて行って見るか。えらい話になって来た。」
 しばらく沈黙が続いた。
「山上の方の系図も、持って来て見せてくださるとよかった。」
「あとから届けますよ。あれで見ると、青山の家は山上から分かれる。山上は三浦家から出ていますね。つまりわたしたちの遠い祖先は鎌倉《かまくら》時代に活動した三浦一族の直系らしい。」
「相州三浦の意味もそれで読める。」と吉左衛門は言葉をはさんだ。
「寿平次さん、もし相州の方へ出かけるとすれば、君はいつごろのつもりなんですか。」
「十月の末あたりはどうでしょう。」
「そいつはおれも至極《しごく》賛成だねえ。」と吉左衛門も言い出した。「半蔵も思い立って出かけて行って来るがいいぞ。江戸も見て来るがいい――ついでに、日光あたりへも参詣《さんけい》して来るがいい。」
 その晩、おまんは妻籠から来た供の男だけを帰らせて、寿平次を引きとめた。半蔵は店座敷の方へ寿平次を誘って、昔風な行燈《あんどん》のかげでおそくまで話した。青山氏系図として馬籠の本陣に伝わったものをもそこへ取り出して来て、二人でひろげて見た。その中にはこの馬籠の村の開拓者であるという祖先青山道斎のことも書いてあり、家中女子ばかりになった時代に妻籠の本陣から後見《こうけん》に来た百助《ももすけ》というような隠居のことも書いてある。道斎から見れば、半蔵は十七代目の子孫にあたった。その晩は半蔵は寿平次と枕《まくら》を並べて寝たが、父から許された旅のことなぞが胸に満ちて、よく眠られなかった。


 偶然にも、半蔵が江戸から横須賀の海の方まで出て行って見る思いがけない機会はこんなふうにして恵まれた。翌日、まだ朝のうちに、お民は万福寺の墓地の方へ寿平次と半蔵を誘った。寿平次は久しぶりで墓参りをして行きたいと言い出したからで。お民が夫と共に看病に心を砕いたあの祖母《おばあ》さんももはやそこに長く眠っているからで。
 半蔵と寿平次とは一歩《ひとあし》先に出た。二人は本陣の裏木戸から、隣家の伏見屋の酒蔵《さかぐら》について、暗いほど茂った苦竹《まだけ》と淡竹《はちく》の藪《やぶ》の横へ出た。寺の方へ通う静かな裏道がそこにある。途中で二人はお民を待ち合わせたが、煙の立つ線香や菊の花なぞを家から用意して来たお民と、お粂《くめ》を背中にのせた下女とが細い流れを渡って、田圃《たんぼ》の間の寺道を踏んで来るのが見えた。
 小山の上に立つ万福寺は村の裏側から浅い谷一つ隔てたところにある。墓地はその小川に添うて山門を見上げるような傾斜の位置にある。そこまで行くと、墓地の境内もよく整理されていて、以前の住職の時代とは大違いになった。村の子供を集めてちいさく寺小屋をはじめている松雲和尚のもとへは、本陣へ通学することを遠慮するような髪結いの娘や、大工の忰《せがれ》なぞが手習い草紙を抱いて、毎日|通《かよ》って来ているはずだ。隠れたところに働く和尚の心は墓地の掃除《そうじ》にまでよく行き届いていた。半蔵はその辺に立てかけてある竹箒《たけぼうき》を執って、古い墓石の並んだ前を掃こうとしたが、わずかに落ち散っている赤ちゃけた杉の古葉を取り捨てるぐらいで用は足りた。和尚の心づかいと見えて、その辺の草までよくむしらせてあった。すべて清い。
 やがて寿平次もお民も亡《な》くなった隠居の墓の前に集まった。
「兄さん、おばあさんの名は生きてる時分からおじいさんと並べて刻んであったんですよ。ただそれが赤くしてあったんですよ。」
 とお民は言って、下女の背中にいるお粂の方をも顧みて、
「御覧、ののさんだよ。」
 と言って見せた。
 古く苔蒸《こけむ》した先祖の墓石は中央の位置に高く立っていた。何百年の雨にうたれ風にもまれて来たその石の面《おもて》には、万福寺殿昌屋常久禅定門の文字が読まれる。青山道
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