間は従順ではあったが、決して屈してはいなかった。
とうとう、この紛争は八月の六日から二十五日まで続いた。長引けば長引くほど、事件は牛方の側に有利に展開した。下海道の荷主が六、七人も角十を訪れて、峠の牛方と同じようなことは何も言わないで、今まで世話になった礼を述べ、荷物問屋のことは他の新問屋へ依頼すると言って、お辞儀をしてさっさと帰って行った時は、角屋十兵衛もあっけに取られたという。その翌日には、六人の瀬戸物商人が中津川へ出張して来て、新規の問屋を立てることに談判を運んでしまった。
中津川の和泉屋《いずみや》は、半蔵から言えば親しい学友|蜂谷香蔵《はちやこうぞう》の家である。その和泉屋が角十に替《かわ》って問屋を引き受けるなぞも半蔵にとっては不思議な縁故のように思われた。もみにもんだこの事件が結局牛方の勝利に帰したことは、半蔵にいろいろなことを考えさせた。あらゆる問屋が考えて見なければならないような、こんな新事件は彼の足もとから動いて来ていた。ただ、彼ら、名もない民は、それを意識しなかったまでだ。
生みの母を求める心は、早くから半蔵を憂鬱《ゆううつ》にした。その心は友だちを慕わせ、師とする人を慕わせ、親のない村の子供にまで深い哀憐《あわれみ》を寄せさせた。彼がまだ十八歳のころに、この馬籠の村民が木曾山の厳禁を犯して、多分の木を盗んだり背伐《せぎ》りをしたりしたという科《とが》で、村から六十一人もの罪人を出したことがある。その村民が彼の家の門内に呼びつけられて、福島から出張して来た役人の吟味を受けたことがある。彼は庭のすみの梨《なし》の木のかげに隠れて、腰繩《こしなわ》手錠をかけられた不幸な村民を見ていたことがあるが、貧窮な黒鍬《くろくわ》や小前《こまえ》のものを思う彼の心はすでにそのころから養われた。馬籠本陣のような古い歴史のある家柄に生まれながら、彼の目が上に立つ役人や権威の高い武士の方に向かわないで、いつでも名もない百姓の方に向かい、従順で忍耐深いものに向かい向かいしたというのも、一つは継母《ままはは》に仕えて身を慎んで来た少年時代からの心の満たされがたさが彼の内部《なか》に奥深く潜んでいたからで。この街道に荷物を運搬する牛方仲間のような、下層にあるものの動きを見つけるようになったのも、その彼の目だ。
五
「御免ください。」
馬籠《まごめ》の本陣の入り口には、伴《とも》を一人《ひとり》連れた訪問の客があった。
「妻籠《つまご》からお客さまが見えたぞなし。」
という下女の声を聞きつけて、お民は奥から囲炉裏《いろり》ばたへ飛んで出て来て見た。兄の寿平次だ。
「まあ、兄さん、よくお出かけでしたねえ。」
とお民は言って、奥にいる姑《しゅうとめ》のおまんにも、店座敷にいる半蔵にもそれと知らせた。広い囲炉裏ばたは、台所でもあり、食堂でもあり、懇意なものの応接間でもある。山家らしい焚火《たきび》で煤《すす》けた高い屋根の下、黒光りのするほど古い太い柱のそばで、やがて主客の挨拶《あいさつ》があった。
「これさ。そんなところに腰掛けていないで、草鞋《わらじ》でもおぬぎよ。」
おまんは本陣の「姉《あね》さま」らしい調子で、寿平次の供をして来た男にまで声をかけた。二里ばかりある隣村からの訪問者でも、供を連れて山路《やまみち》を踏んで来るのが当時の風習であった。ちょうど、木曾路は山の中に多い栗《くり》の落ちるころで、妻籠から馬籠までの道は楽しかったと、供の男はそんなことをおまんにもお民にも語って見せた。
間もなくお民は明るい仲の間を片づけて、秋らしい西の方の空の見えるところに席をつくった。馬籠と妻籠の両本陣の間には、宿場の連絡をとる上から言っても絶えず往来がある。半蔵が父の代理として木曾福島の役所へ出張するおりなぞは必ず寿平次の家を訪れる。その日は半蔵もめずらしくゆっくりやって来てくれた寿平次を自分の家に迎えたわけだ。
「まず、わたしの失敗話《しくじりばなし》から。」
と寿平次が言い出した。
お民は仲の間と囲炉裏ばたの間を往《い》ったり来たりして、茶道具なぞをそこへ持ち運んで来た。その時、寿平次は言葉をついで、
「ほら、この前、お訪《たず》ねした日ですねえ。あの帰りに、藤蔵《とうぞう》さんの家の上道を塩野へ出ましたよ。いろいろな細い道があって、自分ながらすこし迷ったかと思いますね。それから林の中の道を回って、下り坂の平蔵さんの家の前へ出ました。狸《たぬき》にでも化かされたように、ぼんやり妻籠へ帰ったのが八つ時《どき》ごろでしたさ。」
半蔵もお民も笑い出した。
寿平次はお民と二人《ふたり》ぎりの兄妹《きょうだい》で、その年の正月にようやく二十五歳|厄除《やくよ》けのお日待《ひまち》を祝ったほどの年ごろであ
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