父《おやじ》に話してやってもいい。」
牛方は杉《すぎ》の根元にあった古い切り株を半蔵に譲り、自分はその辺の樹陰《こかげ》にしゃがんで、路傍《みちばた》の草をむしりむしり語り出した。
「この事件は、お前さま、きのうやきょうに始まったことじゃあらすか。角十のような問屋は断わりたい。もっと他の問屋に頼みたい、そのことはもう四、五年も前から、下海道《しもかいどう》辺の問屋でも今渡《いまど》(水陸荷物の集散地)の問屋仲間でも、荷主まで一緒になって、みんな申し合わせをしたことよなし。ところが今度という今度、角十のやり方がいかにも不実だ、そう言って峠の牛行司が二人《ふたり》とも怒《おこ》ってしまったもんだで、それからこんなことになりましたわい。伏見屋の旦那《だんな》の量見じゃ、『おれが出たら』と思わっせるか知らんが、この事件がお前さま、そうやすやすと片づけられすか。そりゃ峠の牛方仲間は言うまでもないこと、宮《みや》の越《こし》の弥治衛門《やじえもん》に弥吉から、水上村の牛方や、山田村の牛方まで、そのほかアンコ馬まで申し合わせをしたことですで。まあ、見ていさっせれ――牛方もなかなか粘りますぞ。いったい、角十は他の問屋よりも強欲《ごうよく》すぎるわなし。それがそもそも事の起こりですで。」
半蔵はいろいろにしてこの牛方事件を知ることに努めた。彼が手に入れた「牛方より申し出の個条《かじょう》」は次ぎのようなものであった。
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一、これまで駄賃《だちん》の儀、すべて送り状は包み隠し、控えの付《つけ》にて駄賃等書き込みにして、別に送り状を認《したた》め荷主方へ付送《つけおく》りのこと多く、右にては一同|掛念《けねん》やみ申さず。今後は有体《ありてい》に、実意になし、送り状も御見せ下さるほど万事親切に御取り計らい下さらば、一同安心|致《いた》すべきこと。
一、牛方どものうち、平生《へいぜい》心安き者は荷物もよく、また駄賃等も御贔屓《ごひいき》あり。しかるに向きに合わぬ牛方、並びに丸亀屋《まるがめや》出入りの牛方どもには格別不取り扱いにて、有り合わせし荷物も早速には御渡しなく、願い奉る上ならでは付送《つけおく》り方《かた》に御回し下さらず、これも御出入り牛方同様に不憫《ふびん》を加え、荷物も早速御出し下さるよう御取り計らいありたきこと。(もっとも、寄せ荷物なき時は拠《よんどころ》なく、その節はいずれなりとも御取り計らいありたし。)
一、大豆売買の場合、これを一駄四百五十文と問屋の利分を定め、その余は駄賃として牛方どもに下されたきこと。
一、送り荷の運賃、運上《うんじょう》は一駄|一分割《いちぶわり》と御定めもあることなれば、その余を駄賃として残らず牛方どもへ下さるよう、今後御取り極《き》めありたきこと。
一、通し送り荷駄賃、名古屋より福島まで半分割《はんぶわり》の運上引き去り、その余は御刎《おは》ねなく下されたきこと。
一、荷物送り出しの節、心安き牛方にても、初めて参り候《そうろう》牛方にても、同様に御扱い下され、すべて今渡《いまど》の問屋同様に、依怙贔屓《えこひいき》なきよう願いたきこと。
一、すべて荷物、問屋に長く留め置き候ては、荷主催促に及び、はなはだ牛方にて迷惑難渋|仕《つかまつ》り候間、早速|付送《つけおく》り方、御取り計らい下され候よう願いたきこと。
一、このたび組定《くみじょう》とりきめ候上は、双方堅く相守り申すべく、万一問屋無理非道の儀を取り計らい候わば、その節は牛方どもにおいて問屋を替え候とも苦しからざるよう、その段御引き合い下されたく候こと。
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これは調停者の立場から書かれたもので、牛方仲間がこの個条書をそっくり認めるか、どうかは、峠の牛行司でもなんとも言えないとのことであった。はたして、水上村から強い抗議が出た。八月十日の夜、峠の牛方仲間のものが伏見屋へ見えての話に、右の書付を一同に読み聞かせたところ、少々|腑《ふ》に落ちないところもあるから、いずれ仲間どもで別の案文を認《したた》めた上のことにしたい、それまで右の証文は二人の牛行司の手に預かって置くというようなことで、またまた交渉は行き悩んだらしい。
ちょうど、中津川の医者で、半蔵が旧《ふる》い師匠にあたる宮川寛斎が桝田屋《ますだや》の病人を見に馬籠《まごめ》へ頼まれて来た。この寛斎からも、半蔵は牛方事件の成り行きを聞くことができた。牛方仲間に言わせると、とかく角十の取り扱い方には依怙贔屓《えこひいき》があって、駄賃書き込み等の態度は不都合もはなはだしい、このまま双方|得心《とくしん》ということにはどうしても行きかねる、今一応仲間のもので相談の上、伏見屋まで挨拶《あいさつ》しようという意向であるらしい。牛方仲
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