》が寺小屋を開いた年である。江戸の大地震後一年目という年を迎え、震災のうわさもやや薄らぎ、この街道を通る避難者も見えないころになると、なんとなくそこいらは嵐《あらし》の通り過ぎたあとのようになった。当時の中心地とも言うべき江戸の震災は、たしかに封建社会の空気を一転させた。嘉永《かえい》六年の黒船騒ぎ以来、続きに続いた一般人心の動揺も、震災の打撃のために一時取り沈められたようになった。もっとも、尾張藩主が江戸出府後の結果も明らかでなく、すでに下田《しもだ》の港は開かれたとのうわさも伝わり、交易を非とする諸藩の抗議には幕府の老中もただただ手をこまねいているとのうわさすらある。しかしこの地方としては、一時の混乱も静まりかけ、街道も次第に整理されて、米の値までも安くなった。
 各村倹約の申し渡しとして、木曾福島からの三人の役人が巡回して来たころは、山里も震災のあとらしい。土地の人たちは正月の味噌搗《みそつ》きに取りかかるころから、その年の豊作を待ち構え、あるいは杉苗《すぎなえ》植え付けの相談なぞに余念もなかった。
 ある一転機が半蔵の内部《なか》にもきざして来た。その年の三月には彼も父となっていた。お民は彼のそばで、二人《ふたり》の間に生まれた愛らしい女の子を抱くようになった。お粂《くめ》というのがその子の名で、それまで彼の知らなかったちいさなものの動作や、物を求めるような泣き声や、無邪気なあくびや、無心なほほえみなぞが、なんとなく一人前になったという心持ちを父としての彼の胸の中によび起こすようになった。その新しい経験は、今までのような遠いところにあるものばかりでなしに、もっと手近なものに彼の目を向けさせた。
「おれはこうしちゃいられない。」
 そう思って、辺鄙《へんぴ》な山の中の寂しさ不自由さに突き当たるたびに、半蔵は自分の周囲を見回した。


「おい、峠の牛方衆《うしかたしゅう》――中津川の荷物がさっぱり来ないが、どうしたい。」
「当分休みよなし。」
「とぼけるなよ。」
「おれが何を知らすか。当分の間、角十《かどじゅう》の荷物を付け出すなと言って、仲間のものから差し留めが来た。おれは一向知らんが、仲間のことだから、どうもよんどころない。」
「困りものだな。荷物を付け出さなかったら、お前たちはどうして食うんだ。牛行司《うしぎょうじ》にあったらよくそう言ってくれ。」
 往来のまん中で、尋ねるものは問屋の九太夫、答えるものは峠の牛方だ。
 最初、半蔵にはこの事件の真相がはっきりつかめなかった。今まで入荷《いりに》出荷《でに》とも付送《つけおく》りを取り扱って来た中津川の問屋|角十《かどじゅう》に対抗して、牛方仲間が団結し、荷物の付け出しを拒んだことは彼にもわかった。角十の主人、角屋《かどや》十兵衛が中津川からやって来て、伏見屋の金兵衛にその仲裁を頼んだこともわかった。事件の当事者なる角十と、峠の牛行司|二人《ふたり》の間に立って、六十歳の金兵衛が調停者としてたつこともわかった。双方示談の上、牛馬共に今までどおりの出入りをするように、それにはよく双方の不都合を問いただそうというのが金兵衛の意思らしいこともわかった。西は新茶屋から東は桜沢まで、木曾路の荷物は馬ばかりでなく、牛の背で街道を運搬されていたので。
 荷物送り状の書き替え、駄賃《だちん》の上刎《うわは》ね――駅路時代の問屋の弊害はそんなところに潜んでいた。角十ではそれがはなはだしかったのだ。その年の八月、小草山の口明けの日から三日にわたって、金兵衛は毎日のように双方の間に立って調停を試みたが、紛争は解けそうもない。中津川からは角十側の人が来る。峠からは牛行司の利三郎、それに十二兼村《じゅうにかねむら》の牛方までが、呼び寄せられる。峠の組頭、平助は見るに見かねて、この紛争の中へ飛び込んで来たが、それでも埓《らち》は明きそうもない。
 半蔵が本陣の門を出て峠の方まで歩き回りに行った時のことだ。崖《がけ》に添うた村の裏道には、村民の使用する清い飲料水が樋《とい》をつたってあふれるように流れて来ている。そこは半蔵の好きな道だ。その辺にはよい樹陰《こかげ》があったからで。途中で彼は峠の方からやって来る牛方の一人に行きあった。
「お前たちもなかなかやるねえ。」
「半蔵さま。お前さまも聞かっせいたかい。」
「どうも牛方衆は苦手《にがて》だなんて、平助さんなぞはそう言ってるぜ。」
「冗談でしょう。」
 その時、半蔵は峠の組頭から聞いた言葉を思い出した。いずれ中津川からも人が出張しているから、とくと評議の上、随分|一札《いっさつ》も入れさせ、今後無理非道のないように取り扱いたい、それが平助を通して聞いた金兵衛の言葉であることを思い出した。
「まあ、そこへ腰を掛けろよ。場合によっては、吾家《うち》の阿
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