えて来る。松を立てた家もちらほら見える。「そえご」と組み合わせた門松の大きなのは本陣の前にも立てられて、日ごろ出入りの小前《こまえ》のものは勝手の違った顔つきでやって来る。その中の一人は、百姓らしい手をもみもみ吉左衛門にたずねた。
「大旦那《おおだんな》、ちょっくら物を伺いますが、正月を二度すると言えば、年を二つ取ることだずら。村の衆の中にはそんなことを言って、たまげてるものもあるわなし。おれの家じゃ、お前さま、去年の暮れに女の子が生まれて、まだ数え歳《どし》二つにしかならない。あれも三つと勘定したものかなし。」
「待ってくれ。」
この百姓の言うようにすると、吉左衛門自身は五十七、五十八と一時に年を二つも取ってしまう。伏見屋の金兵衛なぞは、一足飛びに六十歳を迎える勘定になる。
「ばかなことを言うな。正月のやり直しと考えたらいいじゃないか。」
そう吉左衛門は至極《しごく》まじめに答えた。
一年のうちに正月が二度もやって来ることになった。まるでうそのように。気の早い連中は、屠蘇《とそ》を祝え、雑煮《ぞうに》を祝えと言って、節句の前日から正月のような気分になった。当日は村民一同夜のひきあけに氏神|諏訪社《すわしゃ》への参詣《さんけい》を済まして来て、まず吉例として本陣の門口に集まった。その朝も、吉左衛門は麻の※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《かみしも》着用で、にこにこした目、大きな鼻、静かな口に、馬籠の駅長らしい表情を見せながら、一同の年賀を受けた。
「へい、大旦那《おおだんな》、明けましておめでとうございます。」
「あい、めでたいのい。」
これも一時の気休めであった。
その年、安政二年の十月七日には江戸の大地震を伝えた。この山の中のものは彦根《ひこね》の早飛脚からそれを知った。江戸表は七分通りつぶれ、おまけに大火を引き起こして、大部分焼失したという。震災後一年に近い地方の人たちにとって、この報知《しらせ》は全く他事《ひとごと》ではなかった。もっとも、馬籠のような山地でもかなりの強震を感じて、最初にどしんと来た時は皆|屋外《そと》へ飛び出したほどであった。それからの昼夜幾回とない微弱な揺り返しは、八十余里を隔てた江戸方面からの余波とわかった。
江戸大地震の影響は避難者の通行となって、次第にこの街道にもあらわれて来た。村では遠く江戸から焼け出されて来た人たちに物を与えるものもあり、またそれを見物するものもある。月も末になるころには、吉左衛門は家のものを集めて、江戸から届いた震災の絵図をひろげて見た。一鶯斎国周《いちおうさいくにちか》画、あるいは芳綱《よしつな》画として、浮世絵師の筆になった悲惨な光景がこの世ながらの地獄《じごく》のようにそこに描き出されている。下谷広小路《したやひろこうじ》から金龍山《きんりゅうさん》の塔までを遠見にして、町の空には六か所からも火の手が揚がっている。右に左にと逃げ惑う群衆は、京橋|四方蔵《しほうぐら》から竹河岸《たけがし》あたりに続いている。深川《ふかがわ》方面を描いたものは武家、町家いちめんの火で、煙につつまれた火見櫓《ひのみやぐら》も物すごい。目もくらむばかりだ。
半蔵が日ごろその人たちのことを想望していた水戸の藤田東湖《ふじたとうこ》、戸田蓬軒《とだほうけん》なぞも、この大地震の中に巻き込まれた。おそらく水戸ほど当時の青年少年の心を動かしたところはなかったろう。彰考館《しょうこうかん》の修史、弘道館《こうどうかん》の学問は言うまでもなく、義公、武公、烈公のような人たちが相続いてその家に生まれた点で。御三家《ごさんけ》の一つと言われるほどの親藩でありながら、大義名分を明らかにした点で。『常陸帯《ひたちおび》』を書き『回天詩史《かいてんしし》』を書いた藤田東湖はこの水戸をささえる主要な人物の一人《ひとり》として、少年時代の半蔵の目にも映じたのである。あの『正気《せいき》の歌』なぞを諳誦《あんしょう》した時の心は変わらずにある。そういう藤田東湖は、水戸内部の動揺がようやくしげくなろうとするころに、開港か攘夷《じょうい》かの舞台の序幕の中で、倒れて行った。
「東湖先生か。せめてあの人だけは生かして[#「生かして」は底本では「生かし」]置きたかった。」
と半蔵は考えて、あの藤田東湖の死が水戸にとっても大きな損失であろうことを想《おも》って見た。
やがて村へは庚申講《こうしんこう》の季節がやって来る。半蔵はそのめっきり冬らしくなった空をながめながら、自分の二十五という歳《とし》もむなしく暮れて行くことを思い、街道の片すみに立ちつくす時も多かった。
四
安政三年は馬籠《まごめ》の万福寺で、松雲|和尚《おしょう
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