は埋《うず》められそうになった。
そのうちに、名古屋の方へ頼んで置いた狂言|衣裳《いしょう》の荷物が馬で二|駄《だ》も村に届いた。舞台へ出るけいこ最中の若者らは他村に敗《ひけ》を取るまいとして、振付《ふりつけ》は飯田の梅蔵に、唄《うた》は名古屋の治兵衛《じへえ》に、三味線《しゃみせん》は中村屋|鍵蔵《かぎぞう》に、それぞれ依頼する手はずをさだめた。祭りの楽しさはそれを迎えた当日ばかりでなく、それを迎えるまでの日に深い。浄瑠璃方《じょうるりかた》がすでに村へ入り込んだとか、化粧方が名古屋へ飛んで行ったとか、そういううわさが伝わるだけでも、村の娘たちの胸にはよろこびがわいた。こうなると、金兵衛はじっとしていられない。毎日のように舞台へ詰めて、桟敷《さじき》をかける世話までした。伏見屋の方でも鶴松に初舞台を踏ませるとあって、お玉の心づかいは一通りでなかった。中津川からは親戚《しんせき》の女まで来て衣裳ごしらえを手伝った。
「きょうもよいお天気だ。」
そう言って、金兵衛が伏見屋の店先から街道の空を仰いだころは、旧暦九月の二十四日を迎えた。例年祭礼狂言の初日だ。朝早くから金兵衛は髪結いの直次を呼んで、年齢《とし》相応の髷《まげ》に結わせた。五十八歳まで年寄役を勤続して、村の宿役人仲間での年長者と言われる彼も、白い元結《もとゆい》で堅く髷の根を締めた時は、さすがにさわやかな、祭りの日らしい心持ちに返った。剃《そ》り立てた顋《あご》のあたりも青く生き生きとして、平素の金兵衛よりもかえって若々しくなった。
「鶴、うまくやっておくれよ。」
「大丈夫だよ。お父《とっ》さん、安心しておいでよ。」
伏見屋親子はこんな言葉をかわした。
そこへ仙十郎もちょっと顔を出しに来た。金兵衛はこの義理ある甥《おい》の方を見た時にも言った。
「仙十郎しっかり頼むぜ。式三番と言えば、お前、座頭《ざがしら》の勤める役だぜ。」
仙十郎は美濃の本場から来て、上の伏見屋を継いだだけに、こうした祭りの日なぞには別の人かと見えるほど快活な男を発揮した。彼はこんな山の中に惜しいと言われるほどの美貌《びぼう》で、その享楽的な気質は造り酒屋の手伝いなぞにはあまり向かなかった。
「さあ。きょうは、うんと一つあばれてやるぞ。村の舞台が抜けるほど踊りぬいてやるぞ。」
仙十郎の言い草だ。
まだ狂言の蓋《ふた》もあけないうちから、金兵衛の心は舞台の楽屋の方へも、桟敷《さじき》の方へも行った。だんだら模様の烏帽子《えぼし》をかぶり、三番叟《さんばそう》らしい寛濶《かんかつ》な狂言の衣裳をつけ、鈴を手にした甥《おい》の姿が、彼の目に見えて来た。戻《もど》り籠《かご》に出る籠かき姿の子が杖《つえ》でもついて花道にかかる時に、桟敷の方から起こる喝采《かっさい》は、必ず「伏見屋」と来る。そんな見物の掛け声まで、彼の耳の底に聞こえて来た。
「ほんとに、おれはこんなばかな男だ。」
金兵衛はそれを自分で自分に言って、束にして掛けた杉《すぎ》の葉のしるしも酒屋らしい伏見屋の門口を、出たりはいったりした。
三日続いた狂言はかなりの評判をとった。たとい村芝居でも仮借《かしゃく》はしなかったほど藩の検閲は厳重で、風俗壊乱、その他の取り締まりにと木曾福島の役所の方から来た見届け奉行《ぶぎょう》なぞも、狂言の成功を祝って引き取って行ったくらいであった。
いたるところの囲炉裏《いろり》ばたでは、しばらくこの狂言の話で持ち切った。何しろ一年に一度の楽しい祭りのことで、顔だちから仕草《しぐさ》から衣裳まで三拍子そろった仙十郎が三番叟の美しかったことや、十二歳で初舞台を踏んだ鶴松が難波治郎作のいたいけであったことなぞは、村の人たちの話の種になって、そろそろ大根引きの近づくころになっても、まだそのうわさは絶えなかった。
旧暦十一月の四日は冬至《とうじ》の翌日である。多事な一年も、どうやら滞りなく定例の恵比須講《えびすこう》を過ぎて、村では冬至を祝うまでにこぎつけた。そこへ地震だ。あの家々に簾《すだれ》を掛けて年寄りから子供まで一緒になって遊んだ祭りの日から数えると、わずか四十日ばかりの後に、いつやむとも知れないようなそんな地震が村の人たちを待っていようとは。
吉左衛門の家では一同裏の竹藪《たけやぶ》へ立ち退《の》いた。おまんも、お民も、皆|足袋《たび》跣足《はだし》で、半蔵に助けられながら木小屋の裏に集まった。その時は、隠居はもはやこの世にいなかった。七十三の歳《とし》まで生きたあのおばあさんも、孫のお民が帯祝いの日にあわずじまいに、ましてお民に男の子の生まれたことも、生まれる間もなくその子の亡《な》くなったことも、そんな慶事と不幸とがほとんど[#「ほとんど」は底本では「ほんど」]同時にやって来たことも知
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