らずじまいに、その年の四月にはすでに万福寺の墓地の方に葬られた人であった。
「あなた、遠くへ行かないでくださいよ。皆と一緒にいてくださいよ。」
とおまんが吉左衛門のことを心配するそばには、産後三十日あまりにしかならないお民が青ざめた顔をしていた。また揺れて来たと言うたびに、下男の佐吉も二人《ふたり》の下女までも、互いに顔を見合わせて目の色を変えた。
太い青竹の根を張った藪《やぶ》の中で、半蔵は帯を締め直した。父と連れだってそこいらへ見回りに出たころは、本陣の界隈《かいわい》に住むもので家の中にいるものはほとんどなかった。隣家のことも気にかかって、吉左衛門親子が見舞いに行くと、伏見屋でもお玉や鶴松なぞは舞台下の日刈小屋《ひがりごや》の方に立ち退《の》いたあとだった。さすがに金兵衛はおちついたもので、その不安の中でも下男の一人を相手に家に残って、京都から来た飛脚に駄賃《だちん》を払ったり、判取り帳をつけたりしていた。
「どうも今年《ことし》は正月の元日から、いやに陽気が暖かで、おかしいおかしいと思っていましたよ。」
それを吉左衛門が言い出すと、金兵衛も想《おも》い当たるように、
「それさ。元日に草履《ぞうり》ばきで年始が勤まったなんて、木曾《きそ》じゃ聞いたこともない。おまけに、寺道の向こうに椿《つばき》が咲き出す、若餅《わかもち》でも搗《つ》こうという時分に蓬《よもぎ》が青々としてる。あれはみんなこの地震の来る知らせでしたわい。なにしろ、吉左衛門さん、吾家《うち》じゃ仙十郎の披露《ひろう》を済ましたばかりで、まあおかげであれも組頭《くみがしら》のお仲間入りができた。わたしも先祖への顔が立った、そう思って祝いの道具を片づけているところへ、この地震でしょう。」
「申年《さるどし》の善光寺の地震が大きかったなんて言ったってとても比べものにはなりますまいよ、ほら、寅年《とらどし》六月の地震の時だって、こんなじゃなかった。」
「いや、こんな地震は前代未聞にも、なんにも。」
とりあえず宿役人としての吉左衛門や金兵衛が相談したことは、老人女子供以外の町内のものを一定の場所に集めて、火災盗難等からこの村を護《まも》ることであった。場所は問屋と伏見屋の前に決定した。そして村民一同お日待《ひまち》をつとめることに申し合わせた。天変地異に驚く山の中の人たちの間には、春以来江戸表や浦賀辺を騒がしたアメリカの船をも、長崎から大坂の方面にたびたび押し寄せたというオロシャの船をも、さては仙洞御所《せんとうごしょ》の出火までも引き合いに出して、この異変を何かの前兆に結びつけるものもある。夜一夜、だれもまんじりとしなかった。半蔵もその仲間に加わって、産後の妻の身を案じたり、竹藪《たけやぶ》や背戸田《せどた》に野宿する人たちのことを思ったりして、太陽の登るのを待ち明かした。
翌日は雪になったが、揺り返しはなかなかやまなかった。問屋、伏見屋の前には二組に分れた若者たちが動いたり集まったりして、美濃の大井や中津川辺は馬籠《まごめ》よりも大地震だとか、隣宿の妻籠《つまご》も同様だとか、どこから聞いて来るともなくいろいろなうわさを持っては帰って来た。恵那山《えなさん》、川上山《かおれやま》、鎌沢山《かまざわやま》のかなたには大崩《おおくず》れができて、それが根の上あたりから望まれることを知らせに来るのも若い連中だ。その時になると、まれに見るにぎわいだったと言われた祭りの日のよろこびも、狂言の評判も、すべて地震の騒ぎの中に浚《さら》われたようになった。
揺り返し、揺り返しで、不安な日がそれから六日も続いた。宿《しゅく》では十八人ずつの夜番が交替に出て、街道から裏道までを警戒した。祈祷《きとう》のためと言って村の代参を名古屋の熱田《あつた》神社へも送った。そのうちに諸方からの通知がぽつぽつ集まって来て、今度の大地震が関西地方にことに劇《はげ》しかったこともわかった。東海道|岡崎宿《おかざきじゅく》あたりへは海嘯《つなみ》がやって来て、新井《あらい》の番所なぞは海嘯《つなみ》のために浚《さら》われたこともわかって来た。
熱田からの代参の飛脚が村をさして帰って来たころには、怪しい空の雲行きもおさまり、そこいらもだいぶ穏やかになった。吉左衛門は会所の定使《じょうづかい》に言いつけて、熱田神社祈祷の札を村じゅう軒別に配らせていると、そこへ金兵衛の訪《たず》ねて来るのにあった。
「吉左衛門さん、もうわたしは大丈夫と見ました。時に、あすは十一月の十日にもなりますし、仏事をしたいと思って、お茶湯《ちゃとう》のしたくに取りかかりましたよ。御都合がよかったら、あなたにも出席していただきたい。」
「お茶湯とは君もよいところへ気がついた。こんな時の仏事は、さぞ身にしみるだろうねえ
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