動いた。この鄙《ひな》びた舞踏の輪は九度も花嫁の周囲《まわり》を回った。
 その晩、盃《さかずき》をすましたあとの半蔵はお民と共に、冬の夜とも思われないような時を送った。半蔵がお民を見るのは、それが初めての時でもない。彼はすでに父と連れだって、妻籠にお民の家を訪《たず》ねたこともある。この二人の結びつきは当人同志の選択からではなくて、ただ父兄の選択に任せたのであった。親子の間柄でも、当時は主従の関係に近い。それほど二人は従順であったが、しかし決して安閑としてはいなかった。初めて二人が妻籠の方で顔を見合わせた時、すべてをその瞬間に決定してしまった。長くかかって見るべきものではなくて、一目に見るべきものであったのだ。
 店座敷は東向きで、戸の外には半蔵の好きな松の樹《き》もあった。新しい青い部屋《へや》の畳は、鶯《うぐいす》でもなき出すかと思われるような温暖《あたたか》い空気に香《かお》って、夜遊び一つしたことのない半蔵の心を逆上《のぼ》せるばかりにした。彼は知らない世界にでもはいって行く思いで、若さとおそろしさのために震えているようなお民を自分のそばに見つけた。


「お父《とっ》さん――わたしのためでしたら、祝いはなるべく質素にしてください。」
「それはお前に言われるまでもない。質素はおれも賛成だねえ。でも、本陣には本陣の慣例《しきたり》というものもある。呼ぶだけのお客はお前、どうしたって呼ばなけりゃならない。まあ、おれに任せて置け。」
 半蔵が父とこんな言葉をかわしたのは、客振舞《きゃくぶるまい》の続いた三日目の朝である。
 思いがけない尾張藩の徒士目付《かちめつけ》と作事方《さくじかた》とがその日の午前に馬籠の宿《しゅく》に着いた。来たる三月には尾張藩主が木曾路を経て江戸へ出府のことに決定したという。この役人衆の一行は、冬のうちに各本陣を見分《けんぶん》するためということであった。
 こういう場合に、なくてならない人は金兵衛と問屋の九太夫とであった。万事扱い慣れた二人は、吉左衛門の当惑顔をみて取った。まず二人で梅屋の方へ役人衆を案内した。金兵衛だけが吉左衛門のところへ引き返して来て言った。
「まずありがたかった。もう少しで、この取り込みの中へ乗り込まれるところでした。オット。皆さま、当宿本陣には慶事がございます、取り込んでおります、恐れ入りますが梅屋の方でしばら
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