やりたくなった。」
 と笑わせた。
 山家にはめずらしい冬で、一度は八寸も街道に積もった雪が大雨のために溶けて行った。そのあとには、金兵衛のような年配のものが子供の時分から聞き伝えたこともないと言うほどの暖かさが来ていた。寒がりの吉左衛門ですら、その日は炬燵《こたつ》や火鉢《ひばち》でなしに、煙草盆《たばこぼん》の火だけで済ませるくらいだ。この陽気は本陣の慶事を一層楽しく思わせた。
 午後に、寿平次|兄妹《きょうだい》がすでに妻籠《つまご》の本陣を出発したろうと思われるころには、吉左衛門は定紋《じょうもん》付きの※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《かみしも》姿で、表玄関前の広い板の間を歩き回った。下男の佐吉もじっとしていられないというふうで、表門を出たりはいったりした。
「佐吉、めずらしい陽気だなあ。この分じゃ妻籠の方も暖かいだろう。」
「そうよなし。今夜は門の前で篝《かがり》でも焚《た》かずと思って、おれは山から木を背負《しよ》って来た。」
「こう暖かじゃ、篝《かがり》にも及ぶまいよ。」
「今夜は高張《たかはり》だけにせずか、なし。」
 そこへ金兵衛も奥から顔を出して、一緒に妻籠から来る人たちのうわさをした。
「一昨日《おととい》の晩でさ。」と金兵衛は言った。「桝田屋《ますだや》の儀助さんが夜行で福島へ出張したところが、往還の道筋にはすこしも雪がない。茶屋へ寄って、店先へ腰掛けても、凍えるということがない。どうもこれは世間一統の陽気でしょう。あの儀助さんがそんな話をしていましたっけ。」
「金兵衛さん――前代|未聞《みもん》の冬ですかね。」
「いや、全く。」
 日の暮れるころには、村の人たちは本陣の前の街道に集まって来て、梅屋の格子《こうし》先あたりから問屋の石垣《いしがき》の辺へかけて黒山を築いた。土地の風習として、花嫁を載せて来た駕籠《かご》はいきなり門の内へはいらない。峠の上まで出迎えたものを案内にして、寿平次らの一行はまず門の前で停《と》まった。提灯《ちょうちん》の灯《ひ》に映る一つの駕籠を中央にして、木曾の「なかのりさん」の唄《うた》が起こった。荷物をかついで妻籠から供をして来た数人のものが輪を描きながら、唄の節《ふし》につれて踊りはじめた。手を振り腰を動かす一つの影の次ぎには、またほかの影が
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