えて見せるのも、この婆さんであるから。
 山地としての馬籠は森林と岩石との間であるばかりでなく、村の子供らの教育のことなぞにかけては耕されない土も同然であった。この山の中に生まれて、周囲には名を書くことも知らないようなものの多い村民の間に、半蔵は学問好きな少年としての自分を見つけたものである。村にはろくな寺小屋もなかった。人を化かす狐《きつね》や狸《たぬき》、その他|種々《さまざま》な迷信はあたりに暗く跋扈《ばっこ》していた。そういう中で、半蔵が人の子を教えることを思い立ったのは、まだ彼が未熟な十六歳のころからである。ちょうど今の隣家の鶴松《つるまつ》が桝田屋《ますだや》の子息《むすこ》などと連れだって通《かよ》って来るように、多い年には十六、七人からの子供が彼のもとへ読書習字珠算などのけいこに集まって来た。峠からも、荒町《あらまち》からも、中のかやからも。時には隣村の湯舟沢、山口からも。年若な半蔵は自分を育てようとするばかりでなく、同時に無学な村の子供を教えることから始めたのであった。
 山里にいて学問することも、この半蔵には容易でなかった。良師のないのが第一の困難であった。信州|上田《うえだ》の人で児玉《こだま》政雄《まさお》という医者がひところ馬籠に来て住んでいたことがある。その人に『詩経《しきょう》』の句読《くとう》を受けたのは、半蔵が十一歳の時にあたる。小雅《しょうが》の一章になって、児玉は村を去ってしまって、もはや就《つ》いて学ぶべき師もなかった。馬籠の万福寺には桑園和尚《そうえんおしょう》のような禅僧もあったが、教えて倦《う》まない人ではなかった。十三歳のころ、父吉左衛門について『古文真宝《こぶんしんぽう》』の句読を受けた。当時の半蔵はまだそれほど勉強する心があるでもなく、ただ父のそばにいて習字をしたり写本をしたりしたに過ぎない。そのうちに自ら奮って『四書《ししょ》』の集註《しゅうちゅう》を読み、十五歳には『易書《えきしょ》』や『春秋《しゅんじゅう》』の類《たぐい》にも通じるようになった。寒さ、暑さをいとわなかった独学の苦心が、それから十六、七歳のころまで続いた。父吉左衛門は和算を伊那《いな》の小野《おの》村の小野|甫邦《ほほう》に学んだ人で、その術には達していたから、半蔵も算術のことは父から習得した。村には、やれ魚|釣《つ》りだ碁将棋だと言って時を送
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