いよいよ参籠《さんろう》の朝も近いと思うと、半蔵はよく眠られなかった。夜の明け方には、勝重のそばで目をさました。山の端《は》に月のあるのを幸いに、水垢離《みずごり》を執って来て、からだを浄《きよ》め終わると、温《あたた》かくすがすがしい。着物も白、袴《はかま》も白の行衣《ぎょうい》に着かえただけでも、なんとなく彼は厳粛な心を起こした。
 まだあたりは薄暗い。早く山を発《た》つ二、三の人もある。遠い国からでも祈願をこめに来た参詣者《さんけいしゃ》かと見えて、月を踏んで帰途につこうとしている人たちらしい。旅の笠《かさ》、金剛杖《こんごうづえ》、白い着物に白い風呂敷包みが、その薄暗い空気の中で半蔵の目の前に動いた。
「どうも、お粗末さまでございました。」
 と言って見送る宿の人の声もする。
 その明け方、半蔵は朝勤めする禰宜《ねぎ》について、里宮のあるところまで数町ほどの山道を歩いた。社殿にはすでに数日もこもり暮らしたような二、三の参籠者が夜の明けるのを待っていて、禰宜の打つ大太鼓が付近の山林に響き渡るのをきいていた。その時、半蔵は払暁《ふつぎょう》の参拝だけを済まして置いて、参籠のしたくやら勝重を見ることやらにいったん宿の方へ引き返した。
「お師匠さま。」
 そう言って声をかける勝重は、着物も白に改めて、半蔵が山から降りて来るのを待っていた。
「勝重さん、君に相談がある。馬籠《まごめ》を出る時にわたしは清助さんに止められた。君のような若い人を一緒に参籠に連れて行かれますかッて。それでも君は来たいと言うんだから。見たまえ、ここの禰宜《ねぎ》さまだって、すこし無理でしょうッて、そう言っていますぜ。」
「どうしてですか。」
「どうしてッて、君、お宮の方へ行けば祈祷《きとう》だけしかないよ。そのほかは一切沈黙だよ。寒さ饑《ひも》じさに耐える行者の行くところだよ。それでも、君、わたしにはここへ来て果たしたいと思うことがある。君とわたしとは違うサ。」
「そんなら、お師匠さま、あなたはお父《とっ》さんのためにお祷《いの》りなさるがいいし、わたしはお師匠さまのために祷りましょう。」
「弱った。そういうことなら、君の自由に任せる。まあ、眠りたいと思う時はこの禰宜《ねぎ》さまの家へ帰って寝てくれたまえ。ここにはお山の法則があって、なかなか里の方で思ったようなものじゃない。いいかい、君、無理
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